ミュンヘン大学教授クラウス・クルジアスとG・ディッケルは熱拡散法によるアイソトープ分離装置を開発しているし、また、アメリカで第2次世界大戦末期になってようやく成功を収めたガス拡散法によるアイソトープ分離装置は、同じくドイツのグスタフ・ヘルツによって考案(実際は改良)されている。

 余談だが、電磁波(電波)の存在を初めて実験的に確かめたハインリヒ・ヘルツは、グスタフ・ヘルツの伯父にあたる人である。周波数の単位として、現在でも「ヘルツ」が用いられているのをご存じの方も多いであろう。

 グスタフ・ヘルツはベルリン工業大学物理学科長という要職にありながら、彼の祖先にユダヤ人がいたという理由でその職を追われ、民間企業に職を得ている。そのためか、ヘルツは以降、二度とアイソトープ分離に携わることはなかった。しかし、ヘルツに頼らずとも、ガス拡散法の研究はできたはずである。ドイツは、ウラン濃縮の重要性と必要性を十分に把握していながら、ウラン濃縮装置の開発を推し進めようとはしなかった。

東洋で初のサイクロトロンが
建設されたのは日本

 1940年(昭和15年)に入ると、日本にも原子爆弾開発の風が吹き寄せてきた。

 核分裂の軍事利用に最初に目をつけたのは、電気工学者でもある陸軍航空技術研究所所長の安田武雄陸軍中将であった。安田中将の思惑はやがて、当時は東京都文京区にあった理化学研究所の仁科芳雄の下へ回ってきた。仁科の下ではその頃、100人を超える若い物理学者たちが働いていたが、のちのノーベル賞受賞者である朝永振一郎も1932年(昭和7年)に理化学研究所の仁科研究室に入っている。

 理化学研究所の本部は現在、埼玉県和光市にあるが、昔から「理研」とよばれ、慕われてきた研究所である。東洋で初となるサイクロトロンが建設されたのは日本であり、仁科の手によるものであった。

 日本の場合、ある意味ではドイツ以上に原子爆弾の製造を意識して、その軍事利用を考えていた。だが、日本にとってドイツは同盟国であり、当事者たちはドイツの原爆開発に対してそれほど懸念する必要がなかったためか、原爆開発をアメリカほど真剣には受け止めていなかったようである。アメリカの場合は、ドイツを恐れるがあまり原爆開発を急務としたと言ってよいだろう。