日本で原子爆弾開発が
成功しなかったのは……

 1940年(昭和15年)12月、理研は核分裂反応が起こる確率を示す分裂核断面積の測定を開始した。

 大日本帝国海軍は、すでに日本軍の支配下になっているビルマ(編集部注/現在のミャンマー)や朝鮮半島を含めれば、原子爆弾の製造に見合う量のウランが入手可能と判断していたようであるが、当時の日本ではまだ、原爆1個を作るのに必要な最小のウランの量、すなわち臨界質量がサッパリわかっていなかったのである(ドイツでもアメリカでも、ハッキリとした値は出ていなかった)。翌1941年(昭和16年)4月、大日本帝国陸軍は日本の原子爆弾開発研究を正式に認可した。

 同年の12月7日(アメリカ時間)、日本軍はハワイのオアフ島にある真珠湾(パール・ハーバー)を奇襲攻撃し、太平洋戦争に突入したが、同時に、日本軍は資源獲得のためイギリス、フランス、オランダ等の管轄下にあった東南アジア諸国への侵攻を拡大していった。これを機に、日本もアメリカも第2次世界大戦に突入していったのである。

 すでに鬼籍に入られたが、筆者の知人に戦時中、陸軍士官学校に在籍していた人がいた。その人からある日、「その頃の私たちはよく、日本は今に、マッチ箱くらいの大きさで想像を絶するような破壊力のある強力な爆弾を開発するという噂を耳にしていました」と聞かされたことを、今でもよく覚えている。

 結局、日本もドイツも無条件降伏する前に、敵の空爆によって核分裂連鎖反応を研究する施設を破壊されてしまった。その結果、日本は原子爆弾の開発を完全に断念してしまったのである。

 一方、アメリカは日本軍による真珠湾(パール・ハーバー)への奇襲以外に、敵による自国への空爆は受けていない。日本軍が風船爆弾をアメリカに向かって飛ばしたという事実はあるが、それによってアメリカの軍事施設が破壊されたという記録は存在しない。