原子核の秘密がここまであばかれると、人類は当然、核分裂を利用した爆弾を考えるようになる。もし核分裂から放出されるエネルギーを利用して爆弾を作ったら、たった1個の爆弾でも、おそらく普通の化学爆薬によるTNT爆弾の何千トン、否、何万トン分もの威力が生じるであろうことが容易に推測されるからである。

ドイツの原子爆弾開発を
世界の科学者たちが懸念していた

 核分裂の発見から1年も経過していない1939年(昭和14年)9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、ヨーロッパでは第2次世界大戦が勃発した。日本はすでに中国に侵入し、中国との泥沼戦争に入っていた。そして、1939年の終わりまでに、100報以上の核分裂に関する学術論文が世界中に出回っていた。戦争という事態を否が応でも意識せざるをえない状況下で、各国の科学者たちの間には、当然のごとく原子爆弾の構想が芽生えはじめたのである。

 核分裂の発見と第2次世界大戦の勃発が時間的に相前後したことは、人類史上における単なる偶然なのだろうか?戦争という特殊な事態が、原子爆弾の開発を促進させたことはいうまでもない。当時、「科学といえばドイツ」と謳われていたほどに、ドイツの科学は世界一の水準を誇っていた。そして、核分裂はそのドイツで発見されている。

 第2次世界大戦前までは、日本はもちろんアメリカでさえも、物理学に限らず科学を志す若者たちの多くはドイツに留学していた。原子爆弾の構想が登場してしまった以上、ドイツは間違いなく原子爆弾の開発に乗り出すであろうことは容易に推測できたし、またドイツが、それを可能ならしめる国であることもわかっていた。イギリスやアメリカの科学者たちは、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦する以前から、ドイツの原子爆弾開発を懸念していたのである。

 アメリカの原子爆弾開発計画は、「マンハッタン計画」とよばれていた。マンハッタン計画の最大の目的は、原子爆弾の製造はもとより、原子爆弾の軍事利用にあった。したがって、マンハッタン計画の最高責任者には、アメリカ陸軍のレスリー・グローヴズ将軍が任命された。そしてグローヴズ将軍は、原子爆弾開発研究の責任者として、1942年当時38歳の気鋭の理論物理学者だったカリフォルニア大学バークレー校教授ロバート・オッペンハイマーを任命したのである。