一方でハイゼンベルクは、多くの優秀なユダヤ人物理学者がアメリカに亡命していることも知っていたし、物資豊かなアメリカが原子爆弾開発に乗り出すであろうことも知っていた。
人一倍、祖国愛の強かったハイゼンベルクが、戦争が始まってしまった以上、祖国の勝利を願っていたことは間違いないだろう。
はたしてドイツは、無理をしてでも原子爆弾開発に乗り出すべきなのか?ドイツ軍部に関係している物理学者たちは、原爆開発を強く推し進めていた。ハイゼンベルク自身は、ナチス軍部と祖国愛との板挟みになっていたようだが、当時の彼の心理状態については、現在もなお謎である。結局ハイゼンベルクは、直接的には原子爆弾の開発に着手することなく、終始、原子炉の臨界実験のみに心を奪われていたようだ。
アメリカのマンハッタン計画の
中心人物とも知己であった
ハイゼンベルクは、ドイツがポーランドに侵攻する直前の1939年6月から7月にかけて、アメリカ講演旅行に出かけている。
ヨーロッパで戦争の気運が高まっている最中にアメリカの主要大学を訪れたハイゼンベルクは、コロンビア大学でフェルミ(編集部注/エンリコ・フェルミ―Enrico Fermi。1901年9月29日~1954年11月28日。イタリア、ローマ出身の物理学者。マンハッタン計画で中心的な役割を果たした)に会い、核分裂とその爆弾への応用について語り合っている。ハイゼンベルクとフェルミは、同じ物理学者の仲間として20代ですでに知己になっていた。
コロンビア大学でハイゼンベルクと会った際、フェルミは「戦争が始まったら、どこの国の政府も科学者たちに原子爆弾の開発を期待するだろう」と語っている。これに対してハイゼンベルクは、戦争を続行しながらの原子爆弾開発はきわめて困難であろうことを予想していた。







