ハマス設立の背景には、中東政治の構造的変化もあった。

 1967年の第三次中東戦争でのアラブ諸国の敗北、1970年のエジプト大統領ガマル・アブドル・ナセルの死去により反帝国主義、世俗主義に基づく「アラブ民族主義」が衰退した。代わりにイスラム復興主義、あるいはイスラム原理主義運動が勢力を拡大する。ハマスもその潮流の中に位置づけられる。

「敵の敵は味方」理論で
当初イスラエルはハマスを容認

 興味深いのは、イスラエル当局がハマスの初期の活動を容認していた点である。

 ガザ地区を占領下に置いていたイスラエルはハマスの前身組織を慈善団体として認可し、モスクや学校の設立を許可した。イスラエルと激しく対立するヤセル・アラファト率いる世俗派のパレスチナ解放機構(PLO)やその中心勢力ファタハを弱体化させ、パレスチナ社会内部の分断を誘発するための政策だった。

 ガザ地区で宗教行政を担当したイスラエル政府元高官アブネル・コーヘンは2009年、米紙ウォール・ストリート・ジャーナルで、「残念ながらハマスを作り上げたのはイスラエルだ」と振り返っている。

 ハマスとイスラエルの関係は、アフガニスタンのイスラム主義勢力と米国の関係に似ているとも言える。

 1979年に始まった旧ソ連軍によるアフガン侵攻の際、「敵の敵は味方」理論で米国は当初、イスラム主義の義勇兵らを援助したが、その後彼らが国際テロ組織アルカイダを結成、2001年9月の米中枢同時テロへとつながった。

社会福祉活動を続ける一方で
自爆テロを厭わない二面性を持つ

「イスラム抵抗運動はシオニストの侵攻に対峙するジハードの鎖の一部である」

「パレスチナの土地はイスラムのワクフの土地(神に与えられた土地)であり、譲渡することは誤りである」

 ハマスは1988年に発表した憲章で、イスラエルの存在を認めず、武装闘争によりパレスチナ解放を実現し、イスラム主義に基づいた国家建設を目指すと宣言した。

 イスラム主義とは、シャリーア、すなわちイスラム法を国家の政治や法律、社会制度の根幹に据えようとする思想で、身近な例では髪を覆う女性の服装規範やアルコールの禁止などが想定される。