解剖もそうだし、お経もそうですよね。お経は本当によくできているなと思っていて、般若心経はまさにそれですよ。

 般若心経だと、「色即是空、空即是色」の「色」というのは、具体的には「感覚から入るもの」です。全てのものに色がついてますから、そんなものは「空」だとまず言っている。それを「空」だとしてしまうのは、言葉なんですね。

 つまり赤かろうが青かろうが黄色かろうが、切ってあろうがなかろうが、リンゴはリンゴだというのと同じで、言語というのは、そういうふうに非常に乱暴に概念化して、同じ「リンゴ」という言葉にまとめてしまうという性質を持っている。だから、「色即是空」というと、これは言葉の世界ですよというふうに事実宣言をしているんですね。

 みなさんお経を聞いて、「あー」とか言ってるんだけど、自分の「生き死に」といった実際に起こる出来事と、今読んでいるお経とは関係ないんだなと。そういうものは「空」であって、言葉にするとそういうものは全部なくなっちゃうんです。

 例えば聖書を読む人は、いつ言葉の世界と言葉でない世界があるということに気がつくんだろう。どっちが先行するのかな。言葉のない世界が確実にあるということをどうして知ってるんですかね。

メッセージで大事なのは
「内容」よりも「宛先」

内田:「出エジプト記」だと、人間の前に主が臨んでくる時は、主は雲の柱や燃える柴など非言語的な表象を経由しているんです。言葉じゃない。でも、モーセはそれを「自分宛てのメッセージ」だと思う。だから、主の呼びかけ(だとモーセが信じたもの)に「はい、私はここにいます」と応答する。一神教信仰はこの瞬間に成立するわけです。

 この物語の核心は、モーセは主のメッセージの「コンテンツ」は理解できなかったけれども、それが「自分宛て」だということは直感的にわかった。つまり、メッセージにおいて重要なのは「アドレス」であって、「コンテンツ」ではない、ということです。コンテンツなんかわからなくてもいいです。わからなくても読んでいるうちにだんだんわかるようになるから。でも、「宛先」がわからないと何も始まらない。