学校には、人類の英知や希望が詰まっている。しかし、ルールや“べき論”で子どもたちを縛り、思考停止した大衆を社会に送り出す装置という側面もある。本来「学ぶ」ことは楽しいことのはずなのに、なぜ学校はつまらない場所になってしまうのか。そもそも、なぜ学校で勉強をするのか? 学業成績の競争は「親ガチャ」という名の出来レースで決まるのか? さまざまな教育現場を見てきたプロの答えは……。(教育ジャーナリスト おおたとしまさ)
教科書はフリーズドライ、先生はお湯
「世の中は数学、国語、理科、社会みたいに分かれていない。教科に分けて学ぶなんてナンセンスだ」という批判は大昔からあるが、そうは言っても、この壮大な宇宙を丸のみできる人間なんていない。
だから細かく分けて、少しずつ咀嚼(そしゃく)して、各部分の味を感じながら理解していくしかない。そのための知識体系を、現代の子どもたちにも食べやすいように小分けにしたものが教科や科目という概念である。
そして、それぞれの教科に含まれる要素の中から現代の子どもたちに学ばせるべきものを取捨選択して究極にまで濃縮したものが教科書だ。まるでフリーズドライされた食品にお湯をかけて、みずみずしさを取り戻すようにするのが先生の役割ということになる。
子どもたちは、それが何百年も前につくられたものであることを意識せず、その味わいをありありと追体験する。それが本来の学校のあるべき姿である。
しかし、どんなにおいしい食べ物でも、おなかいっぱいのときにむりやり食べさせられたらおいしくない。同様に、本来とても楽しい学びだって、強制されたら楽しくなくなってしまうわけだが、その強制力を働かせる絶対的な装置として、学校がある。