「ジャップ、ゴー・ホーム」
さて、そんなわけで入社3年目の1979年、会社の指名を受けて米国のイリノイ大学に留学し、同時に当時新設された日産グループの商社「日産トレーデイング」に出向することになった。
ちょうど社命留学が流行した時代だった。特に日産は当時の石原社長の肝いりで、英語のできる言葉の専門家が海外で活躍する時代は終わるという判断の下、これからは事業運営、モノづくりのバックグラウンドのある人材を国際的な分野に登用していこうという狙いもあったようだ。
留学後は激化する日米貿易摩擦(当時、日本は安価な製品を輸出してもうけ過ぎだから輸出を減らし、米国製品を輸入せよ、と米国から強い圧力を受けていた)の下、輸出の自主規制、バイ・アメリカン(米国製の部品や材料を積極的に輸入すること)などを課される中で米国駐在員として働き、帰国後は米国工場の現地化比率を上げるプロジェクトなどを担当する。
まさに構造変革を求められる仕事に多くの時間を割くことになったのだった。
もともと英語が特別に得意というわけでもなかった私にとっては想定もしていなかった方向に進んだわけだが、産業構造が旧来の輸出型から現地生産型へと変化、進化していく真っただ中の仕事であり、公私ともに多くのことを学んだ時代だったと思う。
ここで私の米国時代を簡単に振り返っておこう。
まずイリノイ大学に留学したわけだが、私は社命留学では認められていなかった家族同伴の留学を選んだ。長女はまだ2歳半で、在米中に妻のお腹には次女ができた。単身留学を前提とした給料で、家族の分も含めたすべての生活費を賄わねばならず、とにかくお金がなかった。
他の企業からの留学生は単身者(独身、または家族を日本に残した)が多かったが、家族持ちで一緒に行く場合は家族の生活費まで持ってくれているケースが多かった。ただし米国の地方都市にある州立大学では家庭持ちの学生が家族を養いながら勉強するのはごく当たり前のことで、私たち夫婦も同じ境遇の人たちから生活の知恵を授けてもらい、結果として貧しいながらもとても楽しい生活になった。







