「皆さん、今日このセミナーの日に、とてもハッピーな出来事がありました。ミスター・サイカワに3人目のベビーが誕生しました。さあ、お集まりの皆さんで祝福いたしましょう」
すぐに全員が立ち上がり、私に向かって笑顔で拍手を送ってくれた。会場は一転して温かい空気で満たされた。
あの瞬間は今でも鮮明に覚えている。
そのセミナーはオハイオ州選出のキャプター下院議員(民主党)とミシガン州選出のレヴィン下院議員(同)の主催だった。2人とも日本の自動車メーカーを「対日貿易赤字の元凶」と名指しし、極めて厳しい意見を持っていた。
西川廣人 著『わたしと日産 巨大自動車産業の光と影』(講談社)
私を紹介してくれた女性もその議員側のスタッフだったと思う。にもかかわらず、妻の出産に言及して「皆さんで祝福しましょう」と粋な計らいをしてくれたのである。しかもわざとらしさは微塵もなく、ごく自然なアナウンスだった。
対立ムードが基調となっていたセミナーにおける、ささやかな出来事ではあるが、私には生涯忘れられない時間になった。
帰国前、裁判官を退任した父が母を伴ってデトロイトまで訪ねてきたことがある。3人目の子供が生まれたばかりで、私の仕事も忙しく、ゆっくりと話をした記憶はないのだが、本書の執筆のため父の遺品を探していたところ、父の友人たちがまとめた遺歌集が出てきた。
父は戦時中の旧制一高時代から親しい仲間と一緒に短歌を詠み、文化勲章を受けた大歌人、土屋文明(1890~1990)を師と仰いだと聞いている。歌集の最後のほうにデトロイトという言葉が出てくる歌を見つけた。
「デトロイトにて出生したるわが孫のありさま見むと空かけりゆく」
デトロイトの我が家を訪れたのが、父にとって最後の訪米となった。つまり亡くなる3年前に作った歌だろう。デトロイトは父の父、居村淳一が若き日を過ごした街だ。自分の息子がそのデトロイトに赴任し、そこで3人目の孫が生まれたという因縁に、父は父なりに感慨を覚え、こんな歌を詠んだのではないか……。今振り返ると、そう思える。







