チキンレースから
降りられない親たち
独ビーレフェルト大学のフレデリック・デ・モル氏と慶應義塾大学の稲葉昭英氏は、23年の論文で、「保育現場では依然として自由遊びや共感といった伝統的な価値観が守られている一方、家庭では、わが子が取り残されるのではないかという親の不安を背景に、伝統的な価値観をふまえながらも“成功”を見据えた習い事や教育投資が幼少期から始められるようになっている」という趣旨のことを述べています。
親たちの不安ももっともです。現代社会における競争は、右肩上がりの時代の競争とは訳が違います。中流以上の生活を保障された上でより良い地位を得るための競争ではなく、市場が求める低賃金労働者をふるい落とすための競争になっているからです。
ふるい落とされた人たちは、いわば“現代の奴隷”です。家を持つことも、子どもを持つことも、彼らにとっては夢のまた夢です。早稲田大学の社会学者、橋本健二氏は彼らを「アンダークラス」と呼んでいます。
就業者の約14%に当たるおよそ900万人が該当します。彼らの平均年収は200万円強。一度、アンダークラスに陥ると自助努力だけでは抜け出せない社会構造になっていることが指摘されています。まるであり地獄です。彼らがいないと経済が回らない社会構造になっているのです。
アンダークラスという言葉を知らなくても、いまの親世代はそういう世相を肌身で感じて知っています。いま、ここにある恐怖です。
だから、親たちはいま、同世代のお友達に負けない総合的な人間力をわが子に授ける孤独な闘いに躍起です。競争は過酷です。責任は重大です。負担は甚大です。これが少子化の原因と言っても差し支えはないでしょう。
社会の進歩を錦の御旗にして、この社会は競争を肯定してきましたが、ここまでくると明らかに「過当競争社会」です。
学校にしても塾にしても習い事にしても、「みんながやってるから行くのっておかしいよね」って、理屈ではそうですが、でもみんながやっていることをやらないと置いてかれる恐怖を感じるのも当事者としては当然。まるでチキンレースです。
そのチキンレースを終わらせるヒントを求めて私は、「ボーイスカウト」「冒険遊び場(プレーパーク)」「全国てらこやネットワーク」「放課後NPOアフタースクール」「トーキョーコーヒー(大人と子どもの居場所をつくり対話を生むムーブメント)」という五つの活動現場を訪ね歩きました。
詳細は拙著『余白と贈与で子は育つ』(集英社新書)に譲るとして、ここでは結論だけ述べます。
グローバル経済の猛威から
子どもたちを守れ
ボーイスカウトや冒険遊び場は、あえて不便やリスクという余白を残すことで、子どもたちが自らの知恵と身体を使いこなす機会を奪還しています。てらこやは、神社仏閣という伝統的なインフラを、グローバル市場経済原理とは別の、「贈与の回路」として使いこなしています。
アフタースクールは学校という閉鎖的な制度を脱学校化し、地域へと開き直します。トーキョーコーヒーは、“教育者”という専門家に頼ることなく、大人が大人として、子どもが子どもとして呼吸できる余白を自律的につくり出しています。
これこそが、思想家イヴァン・イリイチが1970年代に提唱した「コンヴィヴィアル(自立共生的)な社会」の姿そのものではないでしょうか。
自律的に生きるための力を制度や専門家に明け渡し、ただ与えられたサービスを消費するだけの存在に人間が成り下がることを、イリイチは根元的独占と呼び、強く戒めました。制度という巨大な機械の部品ではなく、人々が自分の手に生の主導権を取り戻せと訴えました。
コンヴィヴィアルな社会とは、決して気楽なユートピアではありません。それは、私たちが制度という名の安易な解決策に依存せず、自分たちの身の回りにある道具や場所、そして隣人の知恵を信じ、自らの手で生きる環境をリノベーションし続ける実践です。
そうしてコンヴィヴィアルな地域社会を基盤としつつ、グローバルな市場経済との間を往還しながら生きるバランスを探ることで、ようやく私たちは、市場経済の暴走から始まった世界的破綻へのチキンレースをアホらしく思えるようになるはずです。そうすれば、アクセルを徐々に緩めることができるはずです。
人間を置き換え可能な労働力と見なす社会では、かけがえのない者同士の連帯が分断され、孤立した個人が全体主義に取り込まれていくのだと、政治哲学者のハンナ・アレントは喝破しました。
彼女の洞察を借りるなら、地域社会のつながりを取り戻すことは、暴走する個体能力主義やグローバル市場経済のみならず、いま世界で見られる全体主義への偏りにも、歯止めをかけられるかもしれません。
Key Visual by Noriyo Shinoda, Kanako Onda, Graphic:Daddy’s Home







