今日のノキアの原型は、フィンランド・ケーブルワークス社、フィンランド・ラバーワークス社そしてノキア・フォレストプロダクツ社という独立した企業3社から始まっている。この3社が1967年に合併したとき、新会社の名前を製材所から取った。この製材所はその名前を南部のノキア川から取っていた。

 スカンジナビアの国々は、アメリカのベル研究所で開発された技術をさらに発展させるための陣営に加わることで、携帯電話の事業で有利な地点から出発した。ところがこの順調なスタートにもかかわらず、ノキアは1970年代、モトローラにマーケットを奪われそうになる。同社の歴史上でも厳しい時代の幕開けだった。

 CEOのカリ・カイラモは自分の賭けに保険をかけた。つまり、売上げを伝統的な事業から稼ぎ、その資金でハイテク事業の経営をまかなう、という方法だ。たとえば、携帯電話をつくりながら、その一方でエリクソンからコンピュータ部門を買収し、ドイツのテレビ会社の買収もした。

 ところが携帯電話ビジネスは競争が厳しく、そのうえに既存事業の経営もあったので、ノキアは困難に陥っていった。カイラモは携帯電話事業の将来性を過小評価していたのだ。ノキアは大量生産体制を整えたモトローラにマーケットシェアを奪われてしまった。

成功への階段

 ノキアには次々難問が襲いかかる。1988年にカイラモが自殺、しかも1991年のソ連の崩壊で最も重要なマーケットを失った。同社の最大の株主でさえ、その株をライバルのエリクソンに売却しようとした。幸いなことに、エリクソンはその買収に興味を示さなかった。

 1990年、オリラは携帯電話事業の責任者となり、こうした困難な状況に踏み込んだ。携帯電話を販売するだけの安易な道を行かず、その開発製造に徹底してこだわる、という大胆な決断を下した。そのために携帯電話部門の再編成と士気の向上に乗り出した。

 1992年、オリラはCEOに就任。紙、ゴム、電線、コンピュータ、そしてテレビ局といった周辺事業を手放した。また、通信事業を本格化させるための資金をアメリカから調達しようと考えた。ノキアはヨーロッパの証券取引所には上場していたものの、必要な資金を調達するにはアメリカでの上場が不可欠だった。当時はハイテク株に人気が集まっているころで、ノキアの株価は1944年から99年にかけて2000%も上昇した。