雇用を巡る議論がおかしなことになっている。特に労働時間に関してだ。日本の社会全体が社員を働かさない方向に圧力をかけているように思えてならない。下方圧力をかけるのは戦後日本のお家芸で、その結果、教育は例の「ゆとり教育」まで突き進んでしまったが、それがようやく方向修正されたかと思ったら、今度は「ゆとり労働」圧力である。
「24時間戦えますか?」の
バブル世代が感じる違和感
先日、ワタミが理念集の一部を改訂。「365日24時間死ぬまで働け」という一節を「働くとは生きることそのものである」と変えた。一連のブラック批判のなかでやり玉に挙げられていたフレーズだけに改訂もやむなしかと思うが、実はこのような文言が問題になっているのはワタミだけではない。有名な「電通鬼十則」のなかに「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。」というものがあるが、これもいまの時代においては問題ではないか、と社内からも懸念の声が上がっているという話を数年前に聞いた。
電通もワタミも社員の過労死自殺裁判があり(電通は平成12年最高裁判決で会社側敗訴、ワタミは現在係争中)、あまり勇ましい文言を企業理念や企業規範とするワケにもいかないという事情は分かる。しかし、ブラック企業と批判されているワケでも、過労死問題が事件にまでなっているわけでもないような企業にまで、労働時間に関する下方圧力が社会全体からかかっているように感じる。
もちろん、過労死を未然に防ごうという姿勢は良いことだ。だが、かつては「24時間、戦えますか?」が合い言葉だった僕らバブル世代からすれば、その下方圧力はあまりに強すぎて、違和感すら覚える。
死ぬ気で働くことはそんなに悪いことなのか――。当然ながら、毎日、朝の6時から24時くらいまで休日もなしに働かせるような真性ブラック企業は駆逐すべきだし、本当に社員が死ぬまで働かせるべきでないのは言うまでもない。しかし、企業理念、つまり企業の心意気において、比喩的な意味で「24時間、戦えますか?」と社員に問うこともNGという空気感はどうなのかと思う。
おかげで、労働環境の良い優良企業でさえ萎縮して、必要以上に社員の労働時間を減らそうとしている。ノー残業デーなどはマシなほうで、仕事の自宅持ち帰りも禁止、数十時間程度の残業で始末書みたいな話も聞こえてくる。