J・P・モルガンはその同時代における最も偉大な金融人の1人だ。子どものころには、自分の小遣いの収支を厳しく管理していた。大人になると、注意深くキャッシュフローを運用して巨万の富を稼ぎだした。南北戦争が起こると、それを儲けのチャンスと捉え、実際に儲けている。
1862年、モルガンは、ダブリー・モルガン・アンド・カンパニーを設立する。1871年にはフィラデルフィアに本拠を置くドレクセルという企業と協力関係を構築し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立している。そしてあっという間にニューヨークにおけるトップクラスの金融人にのし上がった。
経営者や政府関係者は決まってモルガンにアドバイスを求めた。モルガンはこれに応えて1895年、アメリカの財政危機を救うのに尽力している。また、アメリカ政府の反対をよそに、鉄道会社のボスをまとめあげようとした。いわゆる業界の「トラスト」を形成する強力な効果があったため、モルガンのビジネス帝国は、アメリカの大統領セオドア・ルーズベルトによってしだいに分割されていった。
生い立ち
J・P・モルガンは1837年4月17日、コネティカット州ハートフォードに生まれる。この年、アメリカは財政難に陥った。ところが、モルガンはその影響を受けなかった。父は日用品を扱う裕福な商人で、この財政危機を自分の商売に最大限活かしていたからだ。モルガンがまだ小さな子どものころ、父親は家族とともにボストンに移り住み、そこで綿の取引を仕事にした。
モルガンは早くも子どものころから商売に関心を持ち始めた。子どもの遊びには目もくれず、時間があれば自分の出納帳に目を凝らし(この習慣は生涯続いた)、自分の小遣いの収支を細かく管理していた。モルガンには勉強好きの性質があった。それはビジネスや金に興味があったからでもあり、病気がちの体だったからでもある。子どものころはリューマチや湿疹などいくつもの疾患に苦しめられた。両親は非常に心配し、モルガンを治療のためアゾレス諸島にまでやっている。
学校では決して人から好かれるような子どもではなかった。そのよそよそしい態度からクラスメートによい印象を持たれることはなかった。その性質はその後も続き、アメリカの一般大衆を同じように遠ざけている。パリに見事なフランス語で手紙を書いて、900ドルのブーツを注文するといったモルガンの習慣は、モルガンの尊大な印象をますます強くするだけだった。
モルガンの受けた教育は、常に裕福な家族の一員にふさわしいものだった。家族がロンドンに移住すると、スイスのプライベートスクールに入れられた。ゲッティンゲン大学に学んだところ、その指導教師がその優秀さに感じ入り、ある教授の助手として大学に残るよう勧めた。大きな夢を抱いていたモルガンは実業界に入るつもりだと言って断った。
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