五月女清以智さん

「自分がライターとしてテーマにしていたものに環境とか食品安全の問題がありました。1980年代後半のことです。大量生産、大量消費の経済成長とは別の価値観を持った、有機農業、無添加食品といったものが広がっていった時代で、自分は良質な食品をつくっている生産者の方をずいぶん取材させてもらいました」

 取材をしていくなか、五月女さんが出会った人に本庄にある埼玉・三之助豆腐/もぎ豆腐店店主の故茂木稔氏がいた。

「茂木さんのエピソードは一杯あるんだけど、俺も茂木さんもお酒が好きだったから(笑)そういう話もあるけど、ある時……茂木さんから『君の実家は味噌屋なんだろう。だったら、これを読んでおけば大丈夫だから』と一冊の小冊子を渡されたんです」

 それは『食物と体質』(秋月辰一郎著)という本だった。五月女さんはそれを帰りの電車のなかで読んだ。人間の体質をつくるものは環境と食物であり、先人の知恵が込もった味噌汁こそ健、不健の鍵だと書かれていた。

「そのとき、直感的に『味噌屋になろう』と思った。それでライター仕事を続けながらだったけど、ここに戻ってきたわけ」

 しかし、実家の味噌の売上はゼロに近い。春駒味噌は絶滅寸前の状態だった。これは継ぐのではなく、一からつくる気持ちでなければ。故郷に戻った五月女さんは91年に新しい法人をつくり、味噌造りをスタートさせる。

 しばらくして、茂木さんから大量の大豆が届いた。

「この大豆で『お前が一番いいと思う味噌をつくってみろ』と言われたんですよ。その時の大豆は本当に素晴らしかった。明確に憶えているんですけど、手洗いしていてびっくりした」

 聞けば農家が一粒、一粒手で選別している大豆だという。大豆を洗いながら、作り手の思いは伝わるものだとわかった。この大豆でつくるなら最高の材料を選びたい。

 最高の材料はこれまで取材し、出会ってきた生産者から選んだ。米は山形の『おきたま興農舎』、塩は伊豆大島産の海の精(現在は石垣の塩)という具合に。やがて仕込んだ味噌を売る段階に来た。

「忘れもしないんですけど、ライター仕事でホテルに缶詰になっていたところに電話がかかってきたんです。(味噌を売るのに)商品名をつけてくれ、という話です。そのとき、なにも考えなかったんですけど『純情紀行』という名前がぽろっと出たんです。今になって考えると純情というのは純な情熱という意味。そして、ライター仕事で様々な生産者を訪ね歩いた軌跡を紀行という言葉で表現したかったのかな」

 こうして必然的な出会いをいくつか経て、はるこま屋の製品「春駒純情紀行」は生まれた。ちなみに缶詰して書いていた原稿は版元の出版社が倒産してしまい、世に出ることはなかったという。運命というのは不思議なもので、こうして五月女さんの人生は味噌造りに行き着く。