カルロス・ゴーン・ビシャラ

 カルロス・ゴーン・ビシャラは、レバノン系の両親のもとでブラジルで生まれ、高校までの教育をレバノンで、高等教育をフランスで受けた。

 タイヤメーカーのミシュランで職業の第一歩を踏み出し、若くしてブラジル事業の再生や北アメリカ市場の統合など数々の重責をこなし、ルノーや日産の目覚ましい業績回復により、世界的経営者となった。

 ゴーンは、その手腕を買われて招聘された民営化間もない自動車会社ルノーで、大胆なコスト削減策で目覚ましい成果を上げた。さらに、破産寸前に追い込まれた日産との提携を実現し、日産の奇跡的な再生を果たし、ルノーの国際的地位をも高めた。今、世界で最も注目されている経営者の1人である。

生いたち

 カルロス・ゴーン・ビシャラは1954年3月9日、レバノン系の両親のもとに生まれた。

 場所は父親が商売をしていたブラジルのポルト・ベーリョ。4人兄妹の2番目で、男子はカルロスだけだった。1歳のとき、衛生的でない水を飲んだことが原因でひどい病気にかかった。治療の効き目がなく、医者は転地療養を勧める。そこで、母が子どもたちを連れてレバノンに戻り、父だけがブラジルに残って仕事を続けることになった。

 レバノンでは、イエズス会系の学校、ノートルダム・カレッジに通った。強い独立心といたずら好きが高じて、学校の厳しい規則を破ることもしばしばだった。ただし、勉強熱心な性格と優秀な成績のおかげで、放校処分にはならずにすんだ。学校の卒業アルバムに載った写真のキャプションには「カルロス・ゴーン。将来は南米ゲリラのリーダー」と記されている。ゲリラではない人生を歩めたのは幸いだった。

 フランスのエンジニアのメッカ、名門のエコール・ポリテクニーク(国立理工科学校)に入学を許され、その後、同じく名門のエコール・デ・ミーヌ(国立鉱山学校)に進学した。両校ともパリの中心街、カルチエ・ラタンにあったことから、ゴーンは一方で優秀な学業成績をおさめながら、また一方では人生を謳歌した。

 経済学の博士号を目指して勉強を続けようかと考えていたころ、ミシュラン社から入社の誘いがあった。同社は、ブラジルでの事業を進めるために、ブラジルの事情通で、ポルトガル語を操れ、そしてフランスで教育を受けたエンジニアを探しているということだった。ゴーンのキャリアはこのミシュランから始まった。