「さとり世代」に迎合する上司はもっての外世代間の違いは確かにある。しかし、社会人教育の場面で、それを過度に意識することは弊害を生んでしまう。「顧客に満足してもらい、事業価値を高めてステークホルダーを豊かにする」という企業の大前提を忘れるべきではない
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「さとり世代」とのコミュニケーションに苦労するミドルは少なくないが、彼らをことさら”特別視”する風潮は逆効果ではないか。「世代間の遠慮は無用」と話す安部会長の持つ教育理念とは?(構成/フリージャーナリスト・室谷明津子)

 

「持てる世代」に生まれた
現代の若者たち

「いまどきの若い奴は」という批判は、いつの時代にもなくならないものでね。私たち団塊の世代は「ビートルズ世代」とも呼ばれて、当時の大人たちから「あの長髪は何だ」と眉をひそめられたものです。その後には、無気力・無関心・無責任の「三無主義」に「新人類」という言葉まで使われて、いまは「さとり世代」ですか。

 新しい社会風俗や嗜好に対して、年長者は違和感を抱くものなのです。古今東西、若者の価値観は大人には理解しがたい。大正時代の若者は明治男から「いまどきの若い者は」と言われていたはずです。しかし自分が年を取ると、若者だったときのことを忘れてつい同じことを言いたくなるのですから、延々と同じ批判が繰り返されるのは世の常です(笑)。

 私から見ると現代の若者は、「持てる世代」です。日本が高度成長を終え、家電も自動車も各家庭にいきわたった後に彼らは生まれました。一方、私たちは高度成長期の真っただ中に育ち、モノへの強烈な憧れがあった。車や、いいブランドを持ってステータスを得たい。仕事を頑張ればそれが手に入るという、ある意味単純な夢に向かってみんなが突き進み、飢餓感と抑圧が発するエネルギーが社会に満ちあふれていました。

 いまの若者は最初からモノがあり、「持ちたい」という憧れや動機がないわけですから、上の世代から見て淡泊な「さとり世代」といわれるのは当然でしょう。

 もう1つ、いまの若者が育った時代の特徴として「頑張っても報われなかった」という空しさが、当時の大人たちに蔓延していたのではないでしょうか。人格形成には、社会的背景はもちろん、家庭環境が大きく影響します。その意味で、失われた10年、20年というのは企業のリストラが家庭に影を落とした時代でした。

 昔から親は子どもに「頑張りなさい」と言いますが、この時代に、親自身が努力に対して正当な結果を得られず、素直に「頑張れば、いい明日が来る」と思えずにいた。むしろ家庭内で愚痴をこぼしていたのではないでしょうか。子どもは家庭の空気を吸収し、血肉とします。そして学校に行くと似た境遇の子どもたちがいて、集団レベルで雰囲気が醸成されていく。それが「世代」をつくるのです。

 モノへの執着がない一方、いまの若者は社会貢献への関心が高く、精神的な充足を求める傾向があると言います。これはむしろ、物質を追い求める社会から一歩ステージが上がったということでしょう。世代の特徴というのは良し悪しではなく、社会と家庭が生んだ結果として、色眼鏡をつけずに理解するべきです。