前回、釈迦の解脱というテーマで考察しました。仏教はバラモン教の伝統の下に、人間の極限までの探求の結果として生まれたものでした。人間探求の極限が仏教だと私は受け止めています。この探求を基準としてキリスト教を見れば、どのような世界が展開するでしょうか。それが今回のテーマです。
キリスト教は啓示宗教ですからその内容は単純明快で、極端な言い方を許してもらえば、人間の思索・探求の余地はほとんどありません。しかも、啓示の内容は、神が人間歴史に介入したというのですから、一般常識からすればキリスト教の核心はすべて超常識、いわば奇跡なのです。しかし、誤解のないように付け加えれば、その主張するところは人間の道理、宇宙の道理ではあります。
そのような特徴を持つキリスト教の人間救済のプロセスを整理すると以下の5ステップとなります。初めに、4千年というユダヤ教の伝統があります――【歴】――。この伝統の下にキリストが登場します――【化】――。キリスト登場以下の3ステップ――【贖】【霊】が加わる――は奇跡ないしは神秘としか言いようがありません。この神の奇跡がどう受け止められ、歴史展開したかが教会です――【会】――。
本論に入る前に、キリスト教の前提となる考え方を述べておきたいと思います。
道徳と言おうと、倫理と言おうと、人と人の関係に関して宇宙には厳然たるルールがあり、これを犯すものは人と「神」から拒絶されるということです。
では、倫理道徳を守り人間関係を損なわなければ良いかとなりますが、人間関係を損なうことは結果であって、その結果が起こる前に心の中でそれは既に損なわれてしまっている。言い換えれば、人と人との関係が損なわれる前にその法(のり)を定めた神と人との関係が損なわれているという事実があります。
人と神との関係性は、神を「究極の他者」と捉えることで、いわばあらゆる関係性の原型・象徴として理解することができるでしょう。人間性の本質的な破綻が、ありうべき関係性――無私の愛情による一致――を結ぶことを阻んでいる。キリスト教の「原罪」という教義はそれです。
このように、一般的な道理では覆うことのできないような根源的な破綻、しかも通常の感性では改善することはもちろん把握することもできないような根源的な破れ――それは人生経験を積まれた方なら思い当ることがあるでしょう――、この「人間の構造的問題」を乗り越えんとする営みが宗教であり(注1)、ここに倫理道徳の淵源としての宗教があるのです。
さて、前回の釈迦の説明のように、キーワードの逐語解説をやれば、平板なキリスト教神学の二番煎じをやりかねません。そういうわけですから、即、核心に入りましょう。
【贖】
●神の愛:キリスト教のエッセンスは冒頭に述べたように神の愛の啓示です。地獄、餓鬼、畜生、修羅さえも抱擁し、無効化し、消滅させ、超越世界に包摂してしまうほどの神の愛の現実体験です。人の心を懺悔に導くのはこれしかないのです。
その結果、実在する神の愛、愛なる神を信じて生きる。寒さに苦しんだ人間が太陽の温かさを理屈なしに喜んで生きるように。キリスト教とは、ただそれだけです。
●贖罪:信じる根拠は何か? 贖罪の事実です(注2)。すなわち、イエスの十字架の死と三日目の復活は、(人間イエスの)全人類を代表しての、他方で(神人イエスの)全人類を包摂しての歴史的事実だった。この宣言に――イエス自身の言葉、パウロの証言と解釈、その他の弟子たちの証言――信頼の根拠を見出すのです。
●信仰による合一:ここで「キリスト教の二重性」とでも言うべき特徴が出て来ます。すなわち、神の愛を知ることによる安心の姿、他方で、贖罪の死と復活に生涯自分を合わせ続けるという懺悔の姿。クリスチャンにはこの二つの姿が生涯、続くのです。
木の高さが同じだけの地中の根の深さに支えられているように、この信仰の二重構造を再確認する必要があります。
以上の三点がキリスト教のエッセンスで、ほぼすべてです。
●自我の処理:第18回 釈迦の解脱で触れた自我の根切りに関して、一言します。断ち難い自我の根切りに関連するイエスの姿です。
イエスは十字架に付けられる数時間前、ゲッセマネで血のしずくのような汗を流して祈りました。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイによる福音書26-39)。
一般的な表現をすれば、自我の願い、自我の生存本能の前になお優先すべき神の願いを置いたということです。それが自我の死でした。
そのイエス(の自己意識)を神はなお、十字架で砕きました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(同27-46)。イエスの心臓は苦痛の中で粉砕されました。「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。するとただちに水と血が出て来た」(ヨハネによる福音19-34)。心臓破裂の場合の医学的な現象です。
そして、奇跡は起きました。(自己意識を砕かれて)死んだイエスが三日後に復活した、と。四福音書が共通してこの記事を載せています。
このイエスが経験し、確立した世界に自分を合わせる、これがキリスト教における自我の根切りです。これ以上のことは恐らく人間にはできないのです。
【霊】
●聖霊と心:さて、以下で実践の問題が出て来ます。それが聖霊と心、そして善です。
超越実在としての神、歴史的存在としてのイエス・キリストに対して、生身の人間に影響を及ぼす神的存在が聖霊です――これが後代に「三位一体の神」として教義形成されました――。キリスト教生活のエッセンスは聖霊の支配下に生きることに尽きます。本稿の文脈ではこれが自己超越です。聖霊と心の微妙な問題は次回で述べますが、要点は聖霊こそが「心の本質」ということです。
次回の分を先取りして言えば、経験抜きではわかりにくいことですが、聖霊の作用こそが人間の心――愛情、真実、正義への愛、神ゆえの苦しみや絶望等々の精神現象――であって、救済とは知能ロボットにすぎぬ、心なき存在としての人間が、聖霊の「内住」によって生きた心を取り戻すということで、それが救いなのです。言い換えれば、聖霊が人間の心の根底に見い出されることが救済の現実なのです
●善:注3 イエスの贖罪の8面体で整理したのですが、真理というものは対他者、対社会のレベルで具体化されているときに、その姿で評価されるべきものということです。内面世界を根とすれば、対他者、対社会のレベルが実で、その実で評価されるということです。
そういう意味で、善は真理の試金石ということが出来ます。筆者の見解を言えば、ホントの善は、その人の来し方と無縁でなく、言い換えれば、その人の来し方の歩みを反映している故に、その人らしさ――独自性――を持つと思われます。
【会】
●教会の成立:福音書を読めば、イエスが捕えられて十字架に付けられるとき、弟子たちはヨハネを除いて皆、逃げ去ったと書かれています。特に、ペテロに関しては詳細な記述があります。ところが、覚悟のなかった弟子たちが、これまたヨハネを除いて、皆、殉教者となっています――ヨハネはパトモス島に流罪となり、ここで「黙示録」を書いた――。
短時日で、臆病者が殉教者に変わった。この分岐点にイエスの復活があったのです。復活を確信した者、復活の霊を身に体した者は、死をものともしなくなったのです。
そして、ローマ帝国による迫害の時代を経て、313年ミラノの勅令によって帝国公認の宗教となります。この300年は迫害と殉教の時代でもありました。その後、紆余曲折を経つつ展開して、現在に至っています。
●教会の誤解:ここでは教会が教えることの少ない、あるいは出来ていない応用問題とでも言うべき事柄を示します。
1)自己認識の難しさ:人生を苦と見ることが仏教の出発点であるように、人間を罪びとと見ることがキリスト教のスタートなのですが、自分が極刑に値するほどの罪びとであると真に知ることは難しい――例えば経験の少ない青年の場合はもちろん、大方は老年の場合でも――、そのような人間自体が少ないであろうことです。
とは言いながら、先に述べたように、青年であっても「人間の構造的問題」の存在にうすうすは気がついており、徐々に「導かれて」行くもののようです。
2)神の赦しと人の許し:冒頭に述べた倫理違反の事実に関して、神は赦すが、人は許さないし、許せないし、許すのは難しい。だから、悪は避けねばならない。加害者になってはいけない。ここを誤ると自らの人生に苦しみを背負い込むことになります。なぜなら、神は赦しても、人に対しては人間世界のルールとして「罪の償い」が要求されるからです。神の赦しという言葉でここを曖昧にしてはいけないのです。
3)「神の赦しの二段階の実現」:キリストの贖罪による赦しへの気づきとそれぞれの人生に現れた悩み苦しみからの解放とは――例えば、生まれながらの病いの癒し、その人が背負っている、自らの責任ではない苦しみからの解放など――必ずしも時間的に一致するとは限りません。
すべての人が大小の差こそあれ、それぞれに抱えている悩みや苦しみからの解放は、個別具体的な苦闘のプロセスで、これを「突き抜けた」人たちの証言を参考にし、勇気づけられながら、これがわが人生の意味をなすものと受け止めることによって備えられます。
それを可能とするもの、同時にその結果であるものが「境涯の変化」――自分の住んでいる世界の暖かさ、明るさ、穏やかさ、平和――です。自分の、人生に置かれた条件を受け止めつつ、力の限り生きて人生の花を咲かせる。まさに、「置かれた場所で咲く」ことこそ人間が自己超越の境涯に入った証し、「問われた人生の意味」への回答で、ここに本当の「信」、個別具体的な「信」が表れるのです。
4)誤解されやすい聖霊:聖霊の認識や経験は、誤解しやすく難しい。特に、聖書に示される聖霊の「現われ」――救いの証としての明瞭な臨在、異言、超常現象、奇跡的な働き等――は必ずしも信仰の必須条件ではないが、聖書を読めばそのようなものとして受け止められがちであること。しかし、先に述べたように、本当は静かな、人への導き、諭し、示し、慰めや励ましこそが聖霊の内在の証しなのです。
5)誤解されやすい奇跡と信仰:聖書の、信仰に伴う約束の奇跡――癒しに代表される信仰に伴う奇跡――は、普通の人間の普通の生活には難しいこと。奇跡を排除する必要はまったくないが――わが来し方を振り返れば、恵みの奇跡に満ちていました――、しかし、これもまた信仰の本道ではなく、信仰の本道とはこれまでに述べた倫理的、精神的な生き方であることです。
●キリスト教神学:神学や教義はせいぜい真理の枠組みであり器でしかありません。知性のやむにやまれぬ問いに解答を与えたものです。言うまでもなく、枠組みよりも大事なものはその中に盛られた愛と贖罪のダイナミズムです。
確かに、道を外れた異端の働きがあり、これを抑制するには正統派の神学がいるのですが、本当のキリスト教は内容そのものの与える罪の赦しの実感体得、愛の人生への吸引です。人間を救うものはこれしかないのです。逆に言えば、「救われた」人間は、知性や認識という平面レベルを突き破って愛なる神を信頼するという「境涯の変化」の中にいるのです。
【歴】
最後に、5ステップの残りの部分を要約します。
●旧約聖書:キリスト教はユダヤ教と旧約聖書の伝統の下に出現したのですが、ユダヤ教と旧約聖書の扱いには難しいものがあります。端的に、ユダヤ教の神には世界神と民族神の両方の性格があり、しかもこの両者は矛盾するのです。民族神が否定され、世界神のみが贖罪の神として登場した。これがキリスト教成立の事情です。したがって、旧約聖書はそういうものとして――必ずしも完全なものばかりではない歴史の事実として――受け止めれば良いのです。
付言すれば、ユダヤ人は人類史上、最も困難な精神状況に置かれていると思われます。世界宗教と民族宗教混淆の信仰が、民族としての苦しみに対する「神の沈黙」という事態の中で、忍耐と待望の間を揺れ動いています。彼らは神の答えを期待できないという限界状況の中で、人間としてどのような答えを出すかという恐ろしい精神状況に直面しています――とは言いながら、仏教は最初からこうした「神話」のない世界で「解答」を探求したのですが――。いずれにせよ、近・現代のユダヤ教思想はこうした苦しみを反映しているように思われます。
【化】
●イエス・キリスト:イエスは神が「受肉」した存在です。神が人となった。神である人、人である神、これがイエス・キリストの本質です。この人が神を示した。この人がわが罪の、また、すべての人の罪の赦しのために死んだ。これがキリスト教の中心的メッセージです。
結論です。仏教のエッセンスが修行による解脱ならば、キリスト教のそれはキリストとの一致による救いです。キリストの死と一致し、復活と一致し、聖霊と一致し、そして「善の境涯」を生きる。それだけです(注3)。「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1-15)とはそのような意味です。それによって救済が成就し、自己超越の世界に入れるとキリスト教は請け合うのです。
十字架は
終(つい)の居場所なり
秋深し
1.旧約聖書、創世記冒頭に人類始祖が神の戒めを捨てたという記事があります。人と神との関係が損なわれた結果、人間は「神不在の世界」に置かれた。
神の祝福は世界になお満ちてはいるものの、「人格の核心たる神」の欠けた人間社会では平和は継続しない。これは観念の世界ではなく、次の世代に殺人として展開します。アダムとエバの長男カインがその弟アベルを殺した。恐ろしいのは、神の命令を捨てた結果が人と人との犯罪――殺人――に展開したということです。
これは何を物語るか? 罪の本質を窺わせる展開であると思います。本文に述べたように、人と人との関係は人と神との関係の写し絵である。そして、理解の難しいことですが、人生と宇宙は最初から悲劇のドラマの中に投げ込まれていると言うべきか、その宿命を自分の人生で知り、かつ、乗り越えて――自己超越――初めて人生の意味が生じると言うべきか、何とも恐ろしい真剣勝負の世界がこの人生、この世界ではあります。しかしながら、「なんじら世にありては患難あり。されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」(ヨハネによる福音書16―33、文語訳)。このような保証もまたあるのです。
2.贖罪とは罪を贖うことであり、罪が何であるかについては前回の釈迦の解脱で詳細検討しました。ここで再度、総括し、罪とは神を失った自我であると要約しましょう。キリスト教はここをどうとらえるか、これがポイントです。
キリスト教は罪の発生と展開を人間の歴史の中でとらえています。しかも人格的宇宙という前提の中で、責任という視点のもとにこれを解決します。すなわち、
(1)罪の発生→堕罪→神との生命のつながりの断絶→聖霊の付与による生命的解決
(2)罪の展開とその処理→罪に対する罰という責任問題→十字架の死による贖罪――自我の断滅――と悔い改めと赦し
(3)人生→信仰によるキリストとの一致という生涯の歩み
このようにして、キリスト教は宇宙と人生の根本問題たる自我の処理を、罪と罰という人格の次元で行い、聖霊という超自然の生命的要素を人間に付与して解決しようとしています。キリスト教にあっては「贖罪」こそがキーワードで、ここが仏教との大きな違いです。
3.ここでキリスト教の要点を「イエスの贖罪の8面体」と表現して、まとめておきます。
キリスト教の内容はこれまで述べて来たように「イエスの贖罪」と要約できるのですが、その全体像を表現するのは難しい。なぜなら、その本質は個人的な経験からしか掴めないことであり、しかも個々の人間によって背負った課題や疑問点は違うし、同じ人間でも発展段階によって必要なものは違うわけで、その全体を一望のもとに見渡すことは相当に難しいわけです。人間側の必要とそれに対応する「イエスの贖罪」の局面とが食い違えば、出会いは生じない。そのようなミスマッチの悲劇も無数にあったことでしょう。だから、その全貌を把握しておくことは、非常に重要なことなのです。それをここで表に要約したいと思います。
繰り返しになりますが、本文でも述べたように、対他者、対社会の領域こそが「信仰の実」で、一般論で言っても、このレベルで宗教は取り扱われ評価されるべきだということです。逆に、ここに「結実」していない場合は結果の出ていない未熟なものとして受け止められるべきなのです。