しばらく、経営、経済、金融の話が続きましたので、人間学に戻ります。私は、経営者と従業員の動機づけの説明として、マズローの欲求階層説を何気なく使っていたのですが、自己実現から自己超越への移行は動機づけのレベルを超えた巨大な問題を抱え込んでいることに気が付きました。

 自己実現と自己超越の違いは、マズロー一流の欠乏動機と成長動機という古典的な2分類と比べても、比較にならないほどの問題を含んでいます。それは「実存の転換」「認知の変容」とでも言うべき認識レベルの違いで、宗教領域における人間意識の根源的な変化に相当し、「救済」とか「悟り」と呼ばれる現象の線引きの線でもあります。そうした視点から、私なりの整理を試みました。要約した図表をご覧ください。

  こうした視点の転換が示すことを以下、5点にまとめてみます。

 第一は、人生成功の究極要因としての自己実現で話を完結させた場合、成功者の逆転失敗という世間によくある事実を考え合わせれば、自己超越への言及なしにはいかにも中途半端な人間学となることに気が付くのです。

 第二は、自己実現世界の常識である自己追求の生き方は、自己起点という本質――われ良し、利己、自我――によって本来、倒錯世界であることです(注1)。倒錯が常態であるところに「人間の構造的問題」があって、その事実を経験的にわからせるのが失敗と苦しみと反省です。苦しみは超越世界への必須の一歩であって、これをすべての人生に貴重なものとして受け止めるべきです。

 第三は、苦しみからの救済・解放の希求が超越世界に人を導くのであって、人間の成長・向上・完成の結果として超越世界に入るのではないこと。まさにこの一点に人間と宇宙のパラドックス(逆説)があります(注2)。

 第四は、したがって、人間に開かれる超越世界の門はただ一つで、それは自分の倒錯、誤り、非人間性、罪過を認めて、倒錯の根源に認識のメスを入れること。そうすればそこに、超越世界の門があります。超越世界の門は英雄のための門ではなく懺悔者のための門です。

 第五は、超越世界の視点から見れば、自己実現という生き方は人生のいわばウオーミングアップに過ぎず――うるわしい「青春の夢」――、人生の関ヶ原は自己超越に転換するどんでん返しのドラマにあり、そのドラマを経て初めて人生のすべてが――来し方の自己実現の努力のすべても――、善に向かうという大団円を迎えることができるのです。

 要するに、人生は超越世界に入る一回限りのチャンスであり、それは常識とは裏腹に、人間不完全の認識――懺悔――と超越世界に対する「信」によって可能となるということです。「信」については詳細、後述します。

 結論です。人間が決定的に不完全であると知るのは普通の人間にとっては難しい。しかし、それなしにはありとあらゆる探求、求道、理想実現の努力はムダに終わる。その事実を「自己実現と自己超越の視点の転換」は教えるのです。

(注)
1 まずは、自己の確立と救済。それは当然なのですが、ここにも落とし穴があります。縁ある人間や世界の救済を横に置いて自己の救済があると考えること自体が巨大な誤り、巨大な迷妄なのです。恐らくは仏教の歴史的な展開の中で、この点に気づいたことが大乗仏教思想として展開されてきたのでしょう。
2 仏教が修行とその完成の宗教だというのは一般的な理解でしょうが、そこはよく見極めねばなりません。解脱と悟りの要点たる禅定、止観の方法は実は、人間の心理的、本能的、構造的な歪みの是正なのです。人類六千年と言われる時間軸のなかで綿々と続き、重層的に積み重なってきた自らの業と歪みの反応・反射を捨断、断滅するための実践手法なのです。それは現にあるものを肯定してその上に何かを構築するという営みではなく捨断・断滅の手術なのです。