原発の立地地域では、多額の補助金や交付金などで豪華な“ハコモノ施設”が建てられてきた。各地に点在する「原子力発電への理解を訴えるスローガン」は、地元の人には見慣れた日常風景の1つだが、東日本大震災以降の福島県では立ち入りが制限されてゴーストタウン化が進む。誰も手入れする人はいない Photo by Hiro Ugaya

 私も、そういう疑問を抱きました。そこで、50~60年前の原発黎明期の事情を知っている人で、まだ生きている人がいないか調べました。すると、54年に米国政府の招きでアルゴンヌ国立研究所に留学し、原子力発電の技術を学んで帰国した“最初の2人の留学生”のうちの1人、伊原義徳氏が存命であることが判明しました。もう1人は、元東京大学教授の大山彰氏(故人)でした。

 1924年生まれの伊原さんは、旧通商産業省(現経済産業省)で原子力発電・エネルギー関連の仕事を手掛け、最後は旧科学技術庁(現文部科学省)の事務次官になった“日本の原発の父”の1人です。とはいえ、電力業界の秘密主義を考えれば、断られることも覚悟していました。そこで、伊原さんのご自宅に「原発黎明期の歴史を調べています。ぜひ、会ってください」という趣旨のお手紙を出したところ、あっさり快諾してもらえたのです。すでに90歳近かった伊原さんを探し出して、正面からアプローチしたのは私だけだったそうです。

 詳細は本を読んでほしいのですが、伊原さんは「(国の原子炉立地審査指針の策定よりも福島第一原発の立地が決まるほうが先だったことについて)当時はそんなものだった」と振り返ります。背景には、米国がドワイト・D・アイゼンハワー大統領の時代(53年1月~61年1月)に、過去には秘密にしてきた核兵器開発の技術(≒原子力発電の技術)を同盟国に輸出・解放することを通じて、米国の仲間を増やそうと大きく方針を変えたことがあります。東西冷戦が強まる中で、日本は世界で唯一の被爆国だったのですが、「世界の潮流に遅れてはならない」と、政治的に前のめりで原発の導入を急ぐ気運があったのです。

 私はまた、もう一人のキーマンの話を聞きました。東電の元副社長で、福島第一原発の立地を担当した豊田正敏氏です。こちらも本に詳しく書きましたが、伊原さんと豊田さんの証言をまとめると、「当時は原発に関する知識や技術は、政府や原子力委員会の学者よりも電力会社のほうが先を行っていた」ことから、「福島第一原発の立地が政府のルールより先でもおかしくなかった」となるのです。原発黎明期の技術者は「原発は危ないもので、いつ暴走するか分からない。そうなったらどうするか」という思いで、世界でもまだ技術が確立されていなかった原発を「事故は起こり得る」という前提で考えていたそうです。

 原発をめぐる損害保険なども、当時の保険業界では「(いくら国策とはいえ)大事故が発生した場合は、民間企業ではとても負担しきれない」という判断がなされたのですが、英国や米国の原発保険のやり方を真似るようにして、最後は国が負担することなどが“後から”整備されて行きました。後から、です。

 東電の元副社長だった豊田さんは、福島第一原発で事故が起きた直後に東電の本社に電話をかけて、「日本には原発事故に関して知見を持つ人物がいるから、そういう専門家に話を聞くべきだ」と話しても、勝俣恒久会長以下の経営幹部は取り合ってくれなかったそうです。技術系の元副社長だったというのに(笑)。