宮崎に本社を置き、九州一円に11店舗のホームセンターを展開しているハンズマン。1914年の創業以来、「お客様第一主義に徹する」を企業理念に掲げ、20期連続増収増益を達成している。業績を支えているのは既存店舗の売り上げで、リピーターが増えているのだという。今では日本全国から出店要請があるというホームセンターを創りあげたのは、父親の後を継ぐために東京から宮崎にUターンした大薗誠司社長。大薗社長に二代目社長の苦悩や今後の挑戦を伺った。
Uターンで金融から小売りの業界へ
多田 まずは、大薗さんの経歴について教えてください。
大薗 もともと大学時代を東京で過ごして、新卒で三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入社しました。横浜の馬車道の入り口にある当時の三和銀行横浜支店です。入社して2年後、私は理工学部出身ということもあり、資金為替でデリバティブと言われる商品を作る部門に異動することになりました。経営者の方に直接会える外回りの係を希望していたので、それは自分がやりたいことと少し違っていて、どうしようかと考えていたときにちょうどハンズマンが上場準備に入ることになりました。それであれば宮崎に帰って上場を準備していくのが一番自分にとってもいいかなと思い、決断しました。
当時ハンズマンは従業員が200人ほどで、今の従業員数の5分の1くらい。店舗数も今は11店舗ありますが、その頃はまだ2店舗しかありませんでした。
多田 Uターンされて、金融から小売りの業界に入られたんですね。業界も立場も全く違う環境に移られて、どのように感じましたか?
大薗 最初の頃は本当にダメでした。最初、私は3号店の店長をさせてもらったんですが、その頃は全く自分の想いが伝わらず苦労しました。銀行にいた頃は部下が1人しかいませんでしたが、ハンズマンでは私よりも年齢が上で、経験も長い方たちばかり。そういう人たちにお客様に喜んでもらえるようにしようと口すっぱく伝えるんですが、なかなか伝わらない。
今考えてみれば私が彼らをお客様の方へ強引に向かせようとしていたんだなと思いますね。「北風と太陽」で言えば北風のような感じで、なかなかうまくいきませんでした。
しかし、月日がたつにつれて、店長として彼らと時間を共にすると、家族みたいな関係が築けるようになりました。そうなってくるといくらやかましいことを言っても、店長は自分たちのために言ってくれているんだと理解してくれました。
ところが、私が現場を離れて本部で上場の準備の業務をする頃になると、現場には新しい従業員が増えていて。関係を築けていない従業員に厳しく注意すると、その人は会社を辞めていきました。会社に行くと誰も出勤してきてくれないという夢を毎日見るようになりましたね。毎日従業員に注意していたので、帰って寝ると夢で必ずうなされるんです。私自身も自己嫌悪に陥入りましたね。
でも辞めていく一方で、叱っても真剣に業務に取り組んでいる従業員もいるわけです。そんな従業員の姿を見ていると、私を助けてくれている皆に感謝の気持ちが強く込み上げてくるのと同時に、自分一人では何もできないということを身にしみて感じました。