1年間に6回も新聞で「謹告」を掲載するほどの品質劣化

 1980年代当初のGMS各社のPB戦略は、現在のように大手メーカーの協力も得られず、結果的には「安かろう悪かろう」と消費者の支持を得られなかった。そうしたなかで唯一、セゾングループの「無印良品」だけが支持を広げ、良品計画の業績も急成長を遂げた。

 ただ、良品計画は2002年2月期には当期利益がゼロになったように、大企業病に陥って商品開発力は落ち込んでおり、無印のブランド力は大きく低下していた。お客さまからのクレームも急増していた。無印良品のブランド再生なしには会社の前途もなかった。

 そもそも無印良品が支持されたのは、「モノしか見えないモノをつくる」、つまり商品そのものの質のみで勝負するという開発理念を地道に追求し、不要な機能や過剰包装などを廃して「わけあって、安い」を掲げたからだった。

「少品種大量販売」でも、「多品種少量販売」でもない。加飾を削ぎ、優れた機能と品質を備えて長く、しかも自由に使ってもらえる商品を創造する。だから無印は対象層を年齢で区切れるものではなかったし、ライフスタイルの提案そのものが商品力となっていた。

 しかし大企業病の病勢が強まるなかで、無印への信頼も急速になくしていた。

 大規模店の出店で売り場が広くなるのに併せて多品種の商品が必要になり、40アイテムから始まった無印良品は6000アイテムにまで肥大していた。必然的に、「わけあって、安い」のコンセプトを磨き続ける力も衰弱していた。

 小売業界では、その時々に一番勢いのあるお店のコンセプトに引きずられる傾向がある。2000年当初、商品開発を席巻し始めていたのはユニクロだ。だから無印も、価格や色、デザインなどで、どこかユニクロっぽくなる。しかも「苦し紛れのお客さま頼り」で、自らに自信がないのでお客さまの意見をストレートに聞いて商品を開発してしまう。例えば、「子どもの服には、可愛らしい色があればいい」と言われれば、堅持していたはずのカラーポリシーを歪めてしまうのだ。

 次第に無印の「MUJIらしさ」がなくなり、平凡なブランドに成り下がっていた。「これって無印じゃないよね」。お客さまは直観的に分かるのである。

 クレームも急増していた。2002年度には、電気製品の発煙・発火、食品の未認可物質の混入など、1年間に6回も「新聞謹告」を掲載する始末。お客さまのクレーム件数は半年で約7500件に達し、品質レベルの低下は目を覆わんばかりになっていた。

 直接的な理由は、商社任せの発注・生産管理にあった。国内外の工場でつくってもらっていながら、社員が工場に足を運んでいないのだ。生産を依頼する会社は中小の規模が多く、この規模の会社での品質管理の要は社長と工場長である。彼らが本気になるかならないかで、品質には天と地ほどの差が出てくる。

 自ら足を運び、改善に向けた意見交換をせず、一緒にものをつくろうという姿勢を見せないからクレームの出る粗悪品ばかりが届く。もちろんその背景には、急激な会社の成長によって外に出ないでも仕事ができると勘違いする驕りがあった。

 無印良品の商品開発力を取り戻し、ブランド力を再生する。2000年に起こった崩壊をいかに直していくか。社長に就任した私の最大の経営課題が、ここにあった。