武田信玄との戦いで、大敗する
これまでの家康の戦いを見ると、彼が「ある種の追い風」を元に戦っていることがわかります。初陣では今川勢力の配下で、桶狭間の戦いで今川義元が死去したあとは、今川勢が撤退せざるを得ない状況で、戦いを始めているのです。
のちに今川家を滅亡させた戦いでも、1568年に武田信玄が今川氏真を攻めたことにタイミングを合わせる形で、今川の領土攻略を開始しています。
家康は、自分に有利な追い風が吹いているときを狙って全力で戦い、戦闘の効果を最大限高めることを常に狙っていたのではないでしょうか。懸川城を攻めあぐんだ家康は、今川家臣に次のような提案を行い、みごとに今川に城を明け渡させることに成功します。
「今川氏とのかつての縁を説き、遠江を家康が取らなければ必ず信玄が取ることになる、それよりは家康に下され和談となれば、北条氏と申し合わせて信玄を追い払い、氏真を駿府へ戻そうというものであった」(書籍『定本徳川家康』より)
自軍に有利な追い風が吹いているときだけを狙い、追い風を活用して勝利を拡大する。そのような姿勢であれば、追い風が吹かないあいだを「待つ」ことになります。ホトトギスが鳴くまで待つ、という家康の性格は「有利な追い風が吹くときを狙って戦う」とすれば、シンプルに理解することが可能になります。
このような家康も、生涯に一度だけ、自軍に有利な追い風がないときに戦ったことがあります。それが武田信玄との三方ヶ原の戦いです。
今川家の領土侵略のときに、信玄と家康は小競り合いをしたことがあり、その対立から信玄が家康の支配地域に攻め込んだのです。1573年に、静岡県浜松市周辺で行なわれた戦いでは、二股城を落とした信玄が、家康の立てこもる浜松城を攻めず、そのまま三河方面(家康の本拠)に進軍しようとします。これを見て、1万ほどの家康軍は2万5000もの兵力を持つ武田軍を追撃することを決意。この無謀な戦闘は、家康の家臣たちが止めるのを振り切って行なわれました。家康は次のように言いました。
「我が国をふみきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉。とかく、合戦をせずしてはおくまじき。陣は多勢・無勢にはよるべからず。天道次第」(書籍『定本徳川家康』)
しかし結局この戦いで、兵力に勝る武田軍に待ち構えられた家康軍は大敗します。多くの重臣を失った家康は、敗戦のときの苦い顔を絵師に書かせてのちにいくども眺めたほどでした。どれほど決意があっても、自軍に追い風が吹いていない時に戦えば、大敗を喫することを家康は学んだのです。
「追い風」を重視して、敗北から学びを得る、家康の強さ
のちに小牧・長久手の戦いで秀吉と対峙したときも、家康は最後まで戦おうとせず、不利な状況になったときには停戦を行ない、人質を差し出す形で戦いを止めています。
追い風が吹いていないときに無謀な戦いを続ければ、大敗を喫して自軍が滅亡しかねないからです。
逆に、自らに有利な追い風が吹いているとき、戦端を開かないのも愚かな話しです。千載一遇のチャンスに手を伸ばさなければ、自らが飛躍するときは永遠にやってこないでしょう。
家康は、配下だった今川義元、最重要の同盟者だった織田信長がともに敗死する大混乱を生涯で2度も体験しています。しかし、人生で多くを学んでいた彼は、その空白と混乱を自らの飛躍の礎に転換できたのです。
多くの場合、守りに強い人は攻めることが苦手であり、攻めることが得意な人は守りが苦手なものです。しかし、時勢に合わせて攻守を巧みに切り替えなければ、大きく飛躍できず、また生き残ることができません。
家康が、今川義元が討たれた桶狭間の戦いのあと、自らの独立を達成するため果敢に戦わなければ、今川勢が去ったエリアは、だれか別の支配者が手に入れていたことでしょう。
武田信玄が今川氏真を攻めた時、勇躍して今川の領土に攻め込まなければ、のちの天下につながる勢力拡大はできなかったかもしれません。弱小だから守り続ければよいというわけではないのです。
家康が生まれた松平家が、2つの勢力に挟まれて独自に判断ができないほどの弱い存在だったことを思い出してください。
織田側に妻の父方が通じたことで、今川の支援を得ていた家康の父は、妻を離縁しました。そのような小勢力に生まれた家康が、大名の頂点に立ち、天下を統一したのです。機会に応じて攻守を使い分けたことが、偉業を成し遂げる力となったのです。