ローマ帝国は東西に分裂し、その後西ローマは消滅。一方、東ローマは十字軍やモンゴル来襲も乗り越え、首都コンスタンティノーブルは海に囲まれた難攻不落の要塞と化す。オスマン帝国は、この要塞都市をどのように攻略したのだろうか。劇的な勝利を呼び込んだ歴史上の戦略から、イノベーション思考の型を学ぶ。好評発売中の『戦略は歴史から学べ』の著者が、新たに書き下ろす「番外編」シリーズ第4回。
十字軍による大混乱と、モンゴル軍の影響
ローマは395年にテオドシウス帝の遺言で東西に分割され、西はイタリア半島のミラノを、東は黒海の出口にあるコンスタンティノーブルを首都に定めます。西ローマはゲルマン民族の侵入で戦闘がたえず、常に侵略の危機にさらされていましたが、476年にゲルマン人の傭兵隊長により帝位を簒奪されて滅亡します。
東ローマもゲルマン人などの対策のため、首都コンスタンティノーブルを高い城壁で囲み要塞化。東欧地域で繁栄を続けながらも、イスラム世界とヨーロッパの接点として1400年代までさまざまな歴史の変化に翻弄されていきます。
11世紀、東ローマはトルコ系遊牧民のセルジューク朝と戦争を続け、一時は領土が半減するほどの敗北を重ねます。苦境の東ローマが教皇ウルバヌス2世に救援を求めたことが、十字軍の発端になります。
1096年には第一回十字軍が進軍を開始、1099年にはエルサレムを占領。当初は十字軍側が快進撃を続けるも、英雄サラディンの登場でイスラム側が1187年にエルサレムを奪還。欧州から遠く離れている十字軍は次第に疲弊していきます。
1204年の第4回十字軍は、東ローマ帝国内で強い影響力のあったヴェネツィア商人と地元民の抗争に加担し、ヴェネツィア商人に渡航費用を肩代わりさせる代わりに、首都コンスタンティノーブルを攻撃して略奪の限りを尽くします。
1220年代からモンゴル軍が中東・東欧に侵略してイスラム世界は大混乱に陥り、イスラム勢力と対峙する十字軍は短い平穏を得ます。しかし、モンゴルの衰退後はイスラムの攻撃も再開。1291年にはテンプル騎士団の守る城塞が陥落、十字軍は消滅します。第4回十字軍の攻撃で滅亡した東ローマ帝国ですが、亡命政権が1261年にコンスタンティノーブルの奪還に成功。帝国の復活を果たしました。
鉄壁の要塞コンスタンティノーブルと、オスマン帝国のメフメト2世
東ローマ帝国は復活を果たすも、現在のトルコ周辺から台頭したオスマン帝国が急速に勢いを増し、1326年から100年以上にわたる戦争を繰り広げます。
オスマン帝国の第7代メフメト2世は、帝国の国力をさらに充実させてコンスタンティノーブルの完全占領を目指します。1453年、10万の軍勢で首都を包囲、さらに150隻近い戦艦で海上を封鎖します。対する東ローマは、今回はヴェネツィアやジェノバも協力させて、彼らの海軍力も活用できる好条件にありました。
【コンスタンティノーブルの防御力】
・北、東、南を海に囲まれた天然の要害
・西側のテオドシウスの壁などの強固な城壁(周囲約26キロ)
・ヴェツィア海軍と金角湾の対岸にある植民都市ガラタの協力
・入り江の金角湾を鎖で封鎖して進入海路を防衛
テオドシウスの壁は、幅20メートルの水を引いた外堀の中にさらに3段階の壁があり、最も強固な壁は厚さ5メートル、高さ17メートルもの偉容を誇りました。
首都のすぐ北を囲む金角湾の入り口は狭く、強固な鎖で防衛線が引かれました。東ローマ側の海軍力は、海洋貿易で活躍するヴェネツィアやジェノバの協力で操船に優れており、たった26隻の艦隊にもかかわらず、敵の侵入を許しませんでした。陸海を包囲しても攻略できない要塞都市に苛立ち、メフメト2世はある決断をします。
陸の丘を、70隻の戦艦が越えて金角湾に侵入した
メフメト2世は、金角湾へ侵入するために、戦艦を陸上に運び丘を超えます。コンスタンティノーブルの対岸にあるヴェネツィア植民都市の裏側の丘を登り、強固な鎖で防衛された金角湾に、戦艦70隻をなんと陸地から侵入させてしまったのです。
コンスタンティノーブルの防衛側は、戦艦が突然湾内に出現したことに驚愕します。兵力がわずか7000人で持ちこたえていた首都は、金角湾の内側に侵入した70隻の戦艦への対策のため、テオドシウスの壁など西側の防衛から人員を割く必要に迫られます。
やがて西側の城壁の一角が破られて、オスマン軍の兵士が大挙して首都に侵入。破滅的な状況の中、東ローマのコンスタンティヌス11世は剣を持ち戦闘に参加、彼は乱戦で行方不明となり、東ローマ帝国は1000年の歴史に幕を閉じます。
メフメト2世は幼少期からギリシャ・ローマの偉人伝を熱心に読んだ人物で、古代の英雄たちと同じイノベーション思考を発揮したと言えます。東ローマの滅亡は、ローマの叡知を学んだ異国人が、ローマの末裔に勝った出来事だったのです。