世界の哲学者はいま何を考えているのか――21世紀において進行するIT革命、バイオテクノロジーの進展、宗教への回帰などに現代の哲学者がいかに応答しているのかを解説する哲学者・岡本裕一朗氏による新連載です。いま世界が直面する課題から人類の未来の姿を哲学から考えます。9/9発売の新刊『いま世界の哲学者が考えていること』からそのエッセンスを紹介していきます。第1回はポストモダン以後の現代哲学の潮流を概観します。
ポストモダン以後、哲学に何が起こったのか
本連載では、世界の「哲学者」が今どんなことを考えているかを見ていきますが、そもそも「哲学」という言葉を聞いて、皆さんはどのような学問だと思われるでしょうか?
かつて19世紀の初頭に、ドイツの哲学者であるヘーゲルは、哲学に対して「ミネルバのフクロウ」という比喩を使いました。『法哲学』(1821年)の序文において、「ミネルバのフクロウは、迫り来る黄昏とともに飛び立つ」と書いたのです。そのレトリックでヘーゲルが述べようとしたのは、哲学が「自分の生きている時代を概念的に把握する」ということです。
自分の生きている時代(「われわれは何者か」)を捉えるために、哲学者は現在へと到る歴史を問い直し、そこからどのような未来が到来するかを展望するのです。この哲学者の問いを、本連載ではその一部を具体的な状況に沿って解明したいと思います。
哲学にとって「今」というこの時代が重要であるのは、単なる一般論ではなく、特別な理由にもとづきます。それは、現代(今)というこの時代が、歴史的に大きな転換点に立っているからです。しかも、この「歴史的転換」は、数十年単位の出来事ではなく、数世紀単位の転換に他ならないのです。この意味を理解していただくために、ルネサンス期の活版印刷術を例に挙げてみましょう。この印刷術は、15世紀中にはヨーロッパ全土に広がったのですが、これがルターの宗教改革やヨーロッパの国民国家形成を促したことは、よく知られています。
この時期、いわゆる「中世」から「近代」への歴史的転換が引き起こされたのです。ところが、まさに現在、活版印刷術に代わる新たなメディア(デジタル情報通信技術)が登場しているのです。とすれば、「近代」から新たな時代への歴史的転換が、今進行中である、と考えられないでしょうか。かつて1970年代から80年代にかけて、世界的に「ポストモダン」が流行しました。しかし、この流行は長く続かず、やがて「ポモ」などといって、ずいぶん前から嘲笑の対象になりました。たしかに奇抜な建築は残されたのですが、理論的な成果には乏しかったように思えます。
けれども、「ポストモダン」が一つだけ重要な問題提起をしたのは間違いありません。「ポストモダン」という言葉そのものが示しているように、モダン(近代)を相対化し、その終わりを主張したことです。「モダン」をどう捉えるかは、論者によってさまざまですが、モダンが終わりつつあるという直観は、時代として共有されていたように思えます。「ポストモダニスト」になるかどうかは別にして、現在が「モダン」そのものの転換期であることは、注意してよいと思います。
時代の変化という点で言えば、哲学そのものも変わり始めていることに、注意が必要です。ひと昔前の哲学観は今では通用しなくなっています。
たとえば、哲学の発信地はどこかと訊ねると、以前はドイツやフランスを挙げる人が多かったと思います。ドイツでは、カントやヘーゲル、ニーチェやハイデガーの伝統があります。フランスでは、第二次世界大戦後にサルトルの実存主義、その後フーコー、ドゥルーズ、デリダといったポスト構造主義の流行がありました。ところが、「哲学の今」を考えるときこうしたイメージはもはや妥当ではありません。
周知のように、20世紀末に経済のグローバリゼーションが進展しましたが、これと同じことが哲学についても起こったのです。しかも、グローバリゼーションがアメリカナイゼーションでもあったように、哲学のグローバル化は同時にアメリカ化でもあるように見えます。大陸系の哲学者たちが、こぞって英米系の分析哲学を導入しつつあるのです。
ちょうど言語として英語が共通語となったように、哲学でも分析哲学が共通哲学のようになり始めています。それだけではありません。ドイツやフランスの哲学者にかんする研究が、本国からアメリカへと移っているのです。