ただ、このような考え方は、今や科学界では嘲笑の対象となっている。たしかに、心と体が別だと考えれば、自由意志と道徳的主体性は存在するとあっさり断言できる。しかし、二元論を裏付ける科学的証拠は一切ないのが実情である。

 一方、科学的な答えのひとつは、「創発」あるいは「創発特性」と呼ばれるものだ。創発特性は自然界のあちこちに見られる。例えば、油はベトベトするが、それを構成する化学元素はそうでない。同様に、砂糖は甘いが、その成分には甘さのかけらもない。この発想をニューロンにも適用し、意識も行為主体性もないニューロンがたくさん集まって相互作用を起こすと、そこにパーツの合計以上のものが現れると考えるのが創発論だ。

 意識問題のさまざまな面にとりくむ科学者の多くが創発論を受け入れているし、実際に意識は脳の創発特性によるものなのかもしれない。だが、こういった創発論は自由意志と道徳的行為主体性の議論にはあまり役に立たない。なぜなら、創発特性はパーツの合計以上ではあるが、「それでもそのパーツによって決まる」からだ。成分によって決定している以上、結局のところは決定論の支配から逃れられていないのである。

◆決定論を否定する
◇決定論はただの世界観である

 現在の決断に関する研究は、ほとんど事前の考慮が必要ないものばかりだ。そのような研究だけをもとに、自由意志がないと考えることには早計である。

 科学者のあいだで、神経生物学的決定論が人間の行動に関する前提として優勢なのは、理論というより世界観だからに他ならない。科学者の多くは、自然界の多くのものが決定論的に動いているため、ほかもすべて決定していると信じることにしているだけである。

 実験室での物理的相互作用が決定しているのだから、人間の行動もすべて決定しているというのには明らかに飛躍がある。ある出来事が起こったあと、決定論的原因のせいだとするのは簡単だが、その説明が正しいとほんとうにわかるかといえば疑問だ。もっと言えば、ある出来事をもたらす要因または影響力であることと、原因であることは異なるのである。

 自由意志は人間行動に対する常識的な見解であるため、仮にこの見解を退けようとするのであれば、その立証責任は決定論者の側にある。そして、現在の決定論仮説では、人間の深い意思決定のケースを扱うことができていない。

◇アルゴリズムだけでは不十分である

 すべての意志や思案、行動といったものを、ある一連のアルゴリズムと方程式のアウトプットと見なすのが決定論だ。そしてそれはすなわち、充分なデータさえあれば、どれも数学的に推論できるということである。

 だが、厳密な一連のルールで定義できない「限りのない問題」は無数にある。創意あふれる原稿を書いたり、戦略的情報について道徳の観点から熟考したりするという課題は、特定のルールにもとづくシステムだけでは対処できない。そして私たちには、決定論的なシステムに解決できないはずの問題を、うまく解決してみせる能力が備わっている。したがって、私たち自身の考えや行動が、特定のアルゴリズムから導き出された結果だとは言えないはずだ。