江戸という時代は、特に後期になると、諸学が盛んになっており、学問的には多様な時代であったが、幕末近くなるに従って国学諸派が力を得てきた。
中には竹内式部の思想に連なる“極右国学”とでも呼ぶべき水戸学のような亜流も存在したが、学問としての穏やかな国学の思想の中に、徳川幕府による全国統治は、朝廷即ち天皇が徳川将軍家に委任したものであるという考え方があり、これを大政委任論と呼ぶ。

 しかし、この思想は、何も国学者によらずとも自然なかたちとして大和民族の精神には、十分消化され、染み込んでいたものである。
 極めて具体的な証例として、天皇の住まい=御所の佇(たたず)まいを考えてみればいい。

 一つの永い歴史をもつ民族の最高権力者の住まいである。それにしては、その塀の低さはどうしたことかと気づいた人も多いことであろう。

 余りにも無防備である。こういう例は、恐らく我が国以外にはあるまい。
 都の庶民にとって、天子様とは文字通りお天道様のような崇高な存在ではあるが、決して権力者ではなかった。

 自分たちが神仏の加護を得て平穏に生きていられるのも、神々との架け橋であられる天子様がそこにおられてこその話なのだ。

 この国の民にとってもともと天皇とは、そういう存在である。これを侵(おか)す者がどこにいようか。

 徳川将軍家もあくまで天子様から政(まつりごと)を執り行う権限をお預かりしてそれを行っているものであり、どこまでも天子様を守護する存在である。

 従って、高い塀も、城壁のような防御施設も御所には要らないのである。