対外膨張と天皇の政治利用

 明治から昭和に至るまでの対外膨張主義も、天皇の政治利用なくしてあり得なかったのである。

 一方、徳川将軍家は勿論、旗本・御家人といった幕臣たちや諸大名は、ほとんどが「尊皇佐幕派」といっていいだろう。
 当時の読書人階級=武家にとっては、当然の教養、知識であって、彼らが身につけていた学問的素養に照らして「尊皇」という倫理観にも似た気分と「佐幕」という政治的立場は全く矛盾していなかったのである。具体的な人物でいえば、以下の幕末動乱期の主要な登場人物は、すべて「尊皇佐幕派」と位置づけられる人びとである。

・時の天皇 孝明天皇
・十四代将軍 徳川家茂(いえもち)
・十五代将軍 徳川慶喜(よしのぶ)
・京都守護職 松平容保(かたもり)
(会津藩主)
・大老 井伊直弼(なおすけ)
(彦根藩主)
・京都所司代 松平定敬(さだあき)
(桑名藩主)
・薩摩藩藩父 島津久光
・土佐藩主 山内容堂(ようどう、 豊信<とよしげ>)

 その他、藩でいえば奥羽越(おううえつ)列藩同盟を構成した諸藩や、新撰組局長近藤勇、思想家であり兵学者でもあった佐久間象山(さくましょうざん)、そして、小栗上野介、木村摂津守(きむらせっつのかみ)、水野忠徳(みずのただのり)、岩瀬忠震(いわせただなり)、川路聖謨(かわじとしあきら)といった列強との通商交渉に当たった幕府高官はすべてこの範疇に入る。

 付言すれば、幕臣でありながらも勝海舟は明らかにこの範疇に入らず、どこまでも「討幕派」である。
 一般には、意外な人が、と思われる列挙かも知れないが、以上はほんの一部に過ぎない。

 真っ先に挙げた孝明天皇とは、長州人が口を開けば「尊皇攘夷」を喚いていた、まさにその時の「尊皇」に当たる人であるが、この天皇が、討幕を、また天皇親政を考えたことは微塵もない。

 政治は幕府に委任しているし、そうあるべきものというのが、この天皇の一貫した考え方であった。

 その意味で、「尊皇佐幕派」の筆頭に位置づけるべきであろう。
 そうなると、この天皇がおわす限り薩摩長州の武力討幕は、不可能である。
 討幕という目的の最大の障壁が、実は孝明天皇その人であったのだ。