「生きる価値」を生産性に求めてはいけない

岸見 以前、私は生命倫理の講義を長く担当していたことがあって、そのときによく学生たちに聞いていました。もし、60歳の私と30歳の息子が同じ病気になり、移植できる臓器が一つしかないとしたら、どちらに移植するべきだろうか、と。すると、学生は何のためらいもなく「息子さん」と答えるのです(笑)

岡本 学生はそう答えますよね(笑)

岸見 でも私は、人間の価値を決める基準など存在せず、人はみな対等だと考えています。たとえば、(2016年7月の)相模原の障害者施設で起こった殺人事件でも、重度の障害者に対する「生きる価値」に関する犯人の告白がありました。重度の障害を持った人は生きる価値がないのか。あるいは、年老いて、自分では何もできなくなっている人は、生きる価値が下がってしまうのか。それは違うと私は思うのです。
 人間の価値というのは「何かができるから」というところにあるのではない。そういった生産性に「生きる価値」の基準を求めてはいけない、生きているということ自体に価値を求めなければいけない。そう私は思います。
 でも、するとまた「人は死んだら価値がないのか」という問いも新たに生まれる。亡くなった人も生者に間違いなく貢献していますから、死ねば人間に価値がなくなるわけではありません。

岡本 やはり、そう簡単に答えが出るような問題ではありませんね。そしてもちろん、それらの問題は哲学者だけが向き合うものではありません。というより、むしろ岸見先生がおっしゃったように、社会の問題や自分の人生について真剣に悩む人はすべて哲学者なんでしょうね。

岸見 そう思います。

岡本 私の本では哲学というテーマのなかで、科学者や社会科学者も登場するので、ときに「彼らは哲学者じゃないだろう」と言われることもあるんです。でも、そんな紋切り型の哲学者枠など取っ払って、ごく一般の人たちの中に哲学があって、哲学者がいるということの方が、はるかにすばらしいと思います。

哲学ブームは『嫌われる勇気』から始まっていた?

(終わり)