ところが幸一は例の“人材スカウト力”を発揮して、玉川の勧誘をはじめた。和江商事の技術研究部門に来ないかというのである。この人材がほしいと思ったときの幸一の粘りは独特のものがある。

 何より彼の言葉には力があった。

 この時の決め手になったのは、

「玉川さんには“ブラジャーの神様”になってほしいんです!」

 という決めぜりふだ。

 聞く人間によっては目を白黒させそうな言葉だが、玉川は素直に感動し、入社を承諾してくれたのだ。昭和28年(1953年)秋のことであった。

 幸一は玉川の入社を機に、同年10月、玉川を課長に据え、男子3名、女子5名からなる技術課を発足させる。渡辺あさ野もここに配属された。

 どれだけ優秀でも、この時代、渡辺を課長にするという発想は幸一にすらない。渡辺が課長になるのは、これから10年以上後のことであった。

 技術課が誕生したのは不景気の真っ最中。一生懸命技術開発にいそしんでも、本当にそれが生かされる日が来るのか半信半疑だったが、彼らの地道な努力が先述した昭和30年(1955年)以降の下着ブームに花開くのである。

技術課や検品課が支えた業界一の品質

 技術課の最初の仕事は、独占販売契約を結んで提携した日本ラバブル・ブラジャー社とエクスキュージットフォーム・ブラジャー社の技術を研究分析し、自家薬籠中のものとすることである。

 玉川はまず、ブラジャーのサイズの見直しをはじめた。

 S・M・L程度のサイズ区分しかなかった日本製と違い、米国製はもっと細かくサイズ区分がされ、カップの大きさにも大小がある。米国製はサイズが日本人の体型に合っていなかったから売れなかったが、このきめ細やかな区分には見ならうべき点が多い。

 あとはどうやって日本人の体型に合わせていくかだ。

 玉川は日本女性の体型を調査するべく、洋裁学校の協力を得てデータの収集を開始した。