四太郎会

 当時は“呉方洋方”という言葉があった。

 百貨店の繊維関係業者の集まりなどがあると、呉服関係者は“上座の方”に座り、洋服・洋品関係者は“下座の方”に座るという暗黙の了解である。

 呉服優位の風潮は、京都では特に強かった。京都織物卸商業組合(略称・織商)は今よりはるかに大きな力を持ち、洋装下着は“メリヤス屋”と呼ばれ、最初のうちは百貨店でも売り場は小さかった。

 そんな中、ネクタイを専門に扱っていた京都ネクタイ(現在のアラ商事)の荒川為義が、「京都で偉そうにしている織商たちの向こうを張って、洋装・洋品雑貨を商売とする者たちで集まろうやないか」

 と声をかけてきた。昭和29年(1954年)のことである。

 幸一は二つ返事で了解し、洋傘やショールの河与商事(現在のムーンバット)の河野卓男(後の京都経済同友会代表幹事)、ハンドバッグを扱っている近藤商店の近藤庄三郎が参加することとなった。いずれも百貨店との取引がある有力会社だ。

 こうして4人の男が集まり、会の名前は「四太郎(したろう)会」とした。寄って酔うて、悪いこと“したろう”というわけである。そこは京都の経営者、幸一以上の猛者がそろっていた。

 荒川から、

「塚本はんはよう仕事しはるが、このままでは早死にするで。事業を大きくしても寿命を縮めたんでは命を事業に代えただけや。仕事も遊びも長生きもできんと、本当の人生とは言えませんで」

 とそそのかされ、昭和29年(1954年)に先斗町(ぽんとちょう)のお茶屋へと、河野に連れられ初めて行ったのが、幸一の本格的なお茶屋遊びの始まりであった。

 そのころの幸一は “旦那はん”には程遠い。

 〈甲斐性がなかったので、座敷には上がれず、女将さんのいる長火鉢の横に座って、舞妓さんをからかったりしていた〉(『乱にいて美を忘れず』)

 のちに週刊誌で“祇園の夜の帝王”と書かれることになる彼にも、こんな時代があったのだ。