「山城屋和助事件」とは?

 山城屋和助(わすけ)事件という典型的な汚職事件があった。
 単なる汚職事件というより、陸軍省疑獄(ぎごく)とでも呼ぶべき醜悪な事件であった。

 山城屋和助、元の名を野村三千三(のむらみちぞう)といい、長州奇兵隊の幹部であった。
 つまり、山縣有朋の部下であった男である。
 御一新後、野村は山城屋和助と名乗り商業を生業(なりわい)とし、山縣の引きで兵部省御用商人となる。

 山縣が、山城屋からの軍需品納入に便宜を図り、忽(たちま)ち財を為し、豪商といわれるまでにのし上がった。
 これによって、山縣自身も財を為したことはいうまでもない。
 典型的な癒着である。

 山縣だけでなく、長州閥の軍人や官吏の遊興費は山城屋もちであったという。
 そのうちに山城屋は、生糸相場にも手を出し、その資金を兵部省が改組された陸軍省から何の担保も出さず引き出したのである。
 その額何と十五万ドル。
 全く、稚拙な漫画のような話である。

 いやしくも国庫であり、公金であろう。
 国家というものを私有物のように扱っていた長州人の感覚とは、それほど未熟であり、それこそ未開であったのだ。

 ところが、ヨーロッパの生糸相場が暴落、山城屋は投機に失敗した。これを取り返そうとして、山城屋は再び陸軍省公金を借り出したのだが、総額は日本円にして六十四万九千円余とも八十万円ともいわれている。
 これは、当時の国家歳入の一パーセント強、陸軍省予算の一割弱に当たる、途方もない金額である。

 山城屋は、大金をもって渡仏したのだが、損失の挽回を図ったかといえば、全くそういう行動はとらなかった。
 では、どうしたのか。
 連日連夜、パリの歓楽街で豪遊したのである。

 時は、明治五(1872)年である。
 この時代、パリではまだまだ珍しい日本人が連夜に亘って豪遊すれば、当然目立つ。
 忽ち、フランス駐在中弁務使鮫島尚信(さめじまひさのぶ)がこれをキャッチした。

 そればかりではない。
 イギリス駐在大弁務使寺島宗則も、ドーバー海峡の向こうの大陸で噂になっているこの日本人の情報を掴んだ。
 二人から本国の副島外務卿にこれが報告されたのである。

 国内でも山城屋と陸軍省の汚い関係が放置されたわけではない。
 陸軍省内部で山城屋の動きに不審を抱く者が誰もいなかったということは、あり得ないのだ。
 陸軍省会計監督種田政明(薩摩出身)が秘かに調査、その結果を同じ薩摩出身の陸軍少将桐野利秋に報告、ここでこの癒着関係は一気に表面化した。

 近衛兵を中心に山縣有朋陸軍大輔(たいふ)の責任を追及する声が沸騰、追いつめられた山縣は、辞表を出さざるを得なくなったのである。

 この段階で、一定期間にせよ山縣が政治生命を失ったとしても不思議ではなかった。
 政治生命を断たれたとしても当然であったが、これを救済したのが西郷である。

 簡略に述べるが、山縣追及の急先鋒は近衛兵であった。その長官ともいうべき近衛都督(ととく)は、山縣が兼務していた。

原田伊織(Iori Harada)
作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など