ネット上で自分を過剰に演出し、一見すごそうな人物に見えるが、実は中身がまるで追いついていない──いわゆる「意識高い系」と呼ばれる人々がいる。そんな、ネット上ではもっぱら揶揄される存在である「意識高い系」。その精神構造と来歴を分析し、『「意識高い系」の研究』(文春新書)としてまとめた古谷経衡(ふるや・つねひら)さんに話を聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集部 小野寺暁子)

──なぜ、今回、「意識高い系」の人を取り上げようと思ったのですか。

古谷経衡さん

 セミナーやパーティーに参加した自撮り写真、高級ホテルでの食事や、新幹線のグリーン車での移動、スタバでノートパソコンを出して仕事している様子など自分の瀟洒な生活ぶりをSNSでひけらかす──。「最近、そんな気持ち悪いヤツ増えているよね」というのが、共通認識になってきました。

 ネット社会になって久しいですが、ボタン一つでSNSなどに写真をアップできるようになり、可視化しやすくなったというのがあると思います。そういう人たちを嘲笑、揶揄する言葉として「意識高い系」という言葉が生まれ、誰しもが使うようになりました。

 しかし、これまでの議論は類型化、分類するに留まるものが多かった気がします。あるいは嘲笑、揶揄の範疇の中に納まっていた。彼らがなぜそのように私生活を見せびらかしたり、ひけらかしたいのかという心理を分析した研究は、僕が調べた限り存在しなかったからです。

――そもそも古谷さんの定義では、「意識高い系」とはどういう人を指すのですか。

 まず、「意識が高い」ことと「意識高い系」は違います。「意識が高い人」というのは、政治や社会問題に熱心に取り組んでいる、考えているという「大義(本書では”高次の大義”と呼んでいます)」に、自分の欲望よりも多くの按分を割き、その大義を部分的にでも達成するのが「意識が高い人」です。彼らは他人のために本気で汗を流し、本気で自己研鑽に励んでいます。

 例えば以前、文藝春秋などでSEALDsの奥田愛基さんと対談したんですが、若者の政治活動のリーダーとして注目された彼は、単に「意識が高い人」です。

「意識高い系」とは、彼のような意識が高い人を、そうはなれない人が斜に構えて茶化すための言葉でなく、意識が高い人の「ふり」をする中途半端な人のことです。「高次の大義」が薄っぺらく、その裏に隠された欲望が透けて見える人のことですね。この場合の欲望とは、主に他者からの承認や異性からモテること、などです。