古から今も変わらず慣習、習慣を受け継ぎながら、流々とした時を刻む町京都祇園。時代を超えて私たち日本人の心を惹きつける「粋の文化」を祇園に入り浸る著者が「かっこいいおとな」になるために紡ぐエッセイ。第3回は「元祖テーマパーク」ともいえる、花街のサービスについてお届けいたします。(作家 徳力龍之介)

京都花街に根づく「サービスの原点」

撮影/福森クニヒロ

 祇園という街には、遊びの要素がぎっしりと詰まっている気がする。舞や唄に始まり食事に芸事、お座敷でのゲームのような遊びと事欠かない。日本という和の世界の楽しみが際限なく用意され、贅沢なまでに堪能できるのだ。

 遊びの趣向や種類があまりなかった時代には、さぞかし夜な夜な出かけていくことが楽しみであったに違いない。今なお残る街並みや芸舞妓衆の立ち振舞い、風習に慣習と古は尽きないのだ。今の時代には何をするにもメニューが多い。食事だけとってみても和食に、フレンチ、イタリアンにとさまざまだ。

 和食一つとってみてもジャンルは多岐にわたり、選ぶ楽しみを与えてくれる。祇園に身を置いていると感じるのは、和の世界の奥ゆかしさと礼儀正しさ、それに美的感性だ。花街の中心はお茶屋という、いわゆる総合演出請負の屋形。今となっては、このお茶屋に花街文化が集積している。季節感一つとってもそうだ。お茶屋ではその時々の障子や襖が用意され、季節ごとに入れかわる。夏のすだれもそのひとつだ。

 花はその時々にあったものが常に生けられ、掛け軸や額装された絵でさえも、季節感を持っている。暖房が入っていても、いまだに火鉢が置かれ暖を取っている。芸舞妓はその月々の花をあしらった簪を着け、着物の柄にまで季節を表している。それらはほんの一例で、一昔前までは花街でなくてもどこの町でもこうした風景が日常だったのだろう。

 人を喜ばせる、いい気分にしてくれる、さすがだねと思わせてくれる。要するに気持ちよく接してくれお客には、不愉快な思いを一切させないように設えから態度、言葉使いとすべてが考え抜かれている。そこにサービスに原点のようなものが感じられるのだ。

 テーマパークという言い方が正しいかどうかはともかく、遊びのなかった時代に文化を損なうことなく、丁寧に考えられたものが今もしっかりと受け継がれている。この街では、それをいまだに日常として暮らしているのだ。時代劇さながらの世界は、それがたとえ演出だとしても変わらぬ姿を踏襲している。

 この街に身を置いていると、和の文化に圧倒されながらも感心させられる。粋なルールが散りばめられ、礼儀作法とは一味も二味も違う独特な粋な計らいに感心することしきりだ。何十年も祇園に通っているくせに、今でも新たな発見と感心に事欠かない魅力の限界を感じさせない街なのでした。遊びとサービスの原点は花街にあり。つくづく思う今日この頃だ。