つねに世間を賑わせている「週刊文春」。その現役編集長が初めて本を著し、話題となっている。『「週刊文春」編集長の仕事術』(新谷学/ダイヤモンド社)だ。本連載では、本書の読みどころをお届けする。
(編集:竹村俊介、写真:加瀬健太郎)

右も左も分からない中での地下鉄サリン事件取材

 全くゼロの状態から人間関係を構築するにはどうすればいいだろうか。私のまだ駆け出しだった記者時代の話をしよう。

 週刊文春編集部に初めて異動したのは入社7年目のことだった。週刊文春には通常、新人で配属される。同期も私以外はほとんどが週刊文春の記者からキャリアをスタートした。なのに、私の週刊文春デビューは30歳。圧倒的に遅かった。

新谷学(しんたに・まなぶ)
1964年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業。89年に文藝春秋に入社し、「Number」「マルコポーロ」編集部、「週刊文春」記者・デスク、月刊「文藝春秋」編集部、ノンフィクション局第一部長などを経て、2012年より「週刊文春」編集長

 異動直後の1995年3月20日。いきなり大事件が起きた。地下鉄サリン事件だ。「やるぞ!」と意気込んでみたものの、どうしていいかわからない。ネタ元も一人もいない。事件のドキュメント記事は書いたが、いい企画は出せない。新聞記者の友だちもほとんどいないし、ましてや警察官なんて全然知らない。時代が「オウム真理教」一色になっていく中で、しばらくはオウムと関係ない記事を書いたり、原稿を書く記者をサポートする「アシ」についたりして、悶々とする日々が続いた。

 あの頃、本当に情報を持っていたのは一部の特派記者(一年契約の専属記者)と一部のベテラン社員だけだった。彼らはいつも集まって、ひそひそと情報交換をしている。知らない人が近づくと、ピタッと話をやめる。排他的なのだ。その情報格差が悔しかった。「あれが今のこの雑誌の中心なのか」「俺もあの中に入りてえな」と思っていた。ジャーナリストの麻生幾さんや友納尚子さんといった警察に強い特派記者や事件の得意な社員が集まってひそひそ話をしているのを横目に見ながら焦っていた。

 そんな状況の中で私はどうしたか。当時、南青山にオウムの道場があったのだが、暇さえあればそこに通っていた。道場の前では、テレビや新聞の記者が常時ベッタリ張っている。そういう人たちに「すみません、ちょっとご挨拶だけでも」などと言って名刺を渡す。「まだ、全然何もわからないんですけど、お時間あったらいろいろ教えていただけませんか」と言いながら名刺交換をするのだ。「今、ちょっと忙しいから」などとあしらわれながらも、一生懸命に名刺を配ってアピールした。たいていは相手にされないが、中にはお茶を飲みながら事件のイロハのイから教えてくれる人もいた。

大切なのは「図々しさ」

 こういったときに大切なのは図々しさだ。相手もやはり忙しい。本業をやりながらなので、私の相手なんかできないのもわかる。それでも臆せずに接触することだ。

 携帯電話もない時代だったため、ポケベルでその人たちを編集部に呼び出したりもした。「なんだお前か」とすぐに電話を切られることもあったが、「ちょっとお時間いただけませんか?」「電話だけでも……」などと食い下がると「忙しいんだよな」と言いながらもちょろちょろと教えてくれることもあった。

 そこで聞いた話を土産がわりに、例のひそひそ話のところに持って行くわけだ。「すみません、こんな話を聞いたんですけど」。すると「ああ、そうなの。おもしろいね、それ。じゃあ、俺のほうで裏取ってみようか」と言ってもらえることもある。それがうれしくて「ちょっとだけこの世界に入れたな」と思ったものだ。

 ものすごく地道だが、そういうことを1年間ずっとやっていた。1年経ったら、だいぶ景色は変わった。情報コミュニティに少しずつ認めてもらえるようになったのだ。

 ただ、基本的に「情報はギブアンドテイク」だ。特にその濃密な情報コミュニティに入るにあたっては「教えてください」だけではダメ。そんなことを言っても「なんで俺たちのネタをお前に教えなきゃいけないんだ」となる。とくに特派記者にとって、情報は飯のタネ。とっておきの話を教えるわけがない。プロの記者は共通言語で語れる人間かどうかという目で常に見ている。そこに入って行くためには、彼らの世界の常識をわきまえた上で、自分なりのネタを持って行かないと「素人としゃべってもしょうがねぇよ」と思われてしまう。