つねに世間を賑わせている「週刊文春」。その現役編集長が初めて本を著し、話題となっている。『「週刊文春」編集長の仕事術』(新谷学/ダイヤモンド社)だ。本連載では、本書の読みどころをお届けする。
(編集:竹村俊介、写真:加瀬健太郎)

とにかく明るい編集長

「殺しの軍団」と呼ばれたデスク時代の後、月刊「文藝春秋」、出版部を経て、私は6年ぶりに編集長として週刊文春に戻った。デスク時代に身につけたこと、反省したことを踏まえて、今がある。編集長として私が気をつけていることをいくつか述べていきたい。

「付いて行きたい」と思わせるリーダーに共通するコト新谷学(しんたに・まなぶ)
1964年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業。89年に文藝春秋に入社し、「Number」「マルコポーロ」編集部、「週刊文春」記者・デスク、月刊「文藝春秋」編集部、ノンフィクション局第一部長などを経て、2012年より「週刊文春」編集長。

 まず、編集長はとにかく「明るい」ことが重要である。編集長が暗いと、編集部が暗くなる。売れようが売れまいが、仕事がうまくいこうがいくまいが、常に明るく「レッツポジティブ」である。疲れ切って暗い顔をした上司なんか、誰だって嫌だろう。

 私は、現場から熱がこもった報告があったら必ず真正面から受け止める。「ネタが取れました!」と言われれば「おー、やったな!」と喜びを隠さない。よく書けている原稿には「今週はいいぞ!」と褒める。もちろん、なんでもかんでも「いいぞ!」と言うわけではない。ダメなときは「ここがダメだ」ときちんと指摘する。

 私も記者だった頃、原稿に対して真剣勝負で向き合ってくれるデスクは好きだった。逆に、どんな原稿を書いても反応が薄かったり、ネタをつかんでも「ああ、そうか」と気のない返事をしたりするようなデスクは苦手だった。自分が記者だった頃には「理想のデスク像」があった。今はデスクだった頃に抱いていた「理想の編集長像」に日々近づきたいと思っている。

 明るいと言えば、週刊文春の元編集長の花田紀凱さんである。会社に入った頃、週刊文春では花田編集長が大活躍していた。毎週、週刊文春が世の中を騒がせる話題を提供していた印象だった。花田さんは社内でも燦然と輝く存在で「これはすごい雑誌だ」と思った。一週刊誌が世の中の中心になっている。その状況に驚いた。その光景は、今も私の心に焼き付いている。

「会って口説けない相手はいない」

 花田編集長は「超楽観主義者」だ。明るく前向きで、雑誌が本当に好きなことが伝わってくる。雑誌を作るのが楽しくてしょうがないという空気を編集部中に発散している。だから、現場も明るくなるし盛り上がる。

 花田さんとは「マルコポーロ」という雑誌で一緒になった。週刊文春編集長の後、花田さんはこの雑誌のリニューアルを任されていた。

 当時、長嶋茂雄さんのお母さんが亡くなった。私は、長嶋さんの「母に捧げる手紙」を彼の後見人から入手し、それを「マルコポーロ」に掲載することになった。そのときに、どうしても使いたい写真があったのだが、使用権を持つ人と全く連絡がつかず困っていた。許可を待っていたら校了に間に合わない。そのとき花田さんに「どうしましょう。しょうがないからあきらめますか?」と聞くと、「いいよ、いいよ、出せ、出せ」と言うではないか。「出した後で、話つけりゃいいじゃねぇか」と。「出してから考えよう」と言われたときに「これか」と思った。まさに花田イズム。出してから考える。揉めたら、そのときは何とかする。このノリがイケイケの花田流の原点にあるのだ。

 その根底にあるのは「会って口説けない相手はいない」という揺るぎない自信だと思う。揉めても何とか収められるはずだという楽観がある。実際、面倒な抗議が来ても花田さんは決して逃げなかった。校了作業の忙しい日でも粘り強く相手をする。なんでもかんでも編集長が矢面に立っていたら、体がいくつあっても足りないが、ここいちばん、編集長が出ないと収まらないという局面は必ずある。そのときに部下の後ろに隠れて逃げるのではなく、グッと前に出る覚悟は絶対に必要だ。そうした姿を現場はじっと見ているのだ。

「マルコポーロ」は95年2月号で「ナチ『ガス室』はなかった。」という記事を掲載した。程なくしてイスラエル大使館から抗議が来た。花田さんは最初のうちは「来月号で抗議文を全文掲載するか」と言っていたが、ユダヤ人団体による広告引き上げキャンペーンなどがあり、結局雑誌は廃刊してしまった。そのときに痛切に感じたのは、花田さんは強烈な「出る杭」だったということだ。社外で人気がある分、敵も多かった。敵というより、ほとんど男の嫉妬だったような気もする。

 私が3ヵ月休養した際にも花田さんは励ましてくれた。「『出る杭』は打たれるけど、出すぎれば打たれないよ」。その言葉にどれだけ救われたことか。

 花田さんは部下を乗せるのもうまかった。『1976年のアントニオ猪木』(文春文庫)などで知られるノンフィクション作家の柳澤健さんは中途採用で文藝春秋に入った異能の人だったが、花田さんはいつも「柳澤は天才なんだよ」とうれしそうに話していた。他の編集長が持て余すようなクセ者の記者でも、すっかりその気にさせてしまう。だから彼のまわりには梁山泊のように、いつもいろんな人間が群がっていた。