コラム 一体化:イーストマン・コダックのチャック・トローブリッジとボブ・クランダル
イーストマン・コダックが複写機事業に参入したのは1970年代初頭だが、平均単価約6万ドルという最先端技術を用いた機種に特化していた。この事業はその後10年間で、10億ドル近い売上げを稼ぐまでに成長した。
とはいえ、高コストで、利益はすずめの涙程度しかなく、ほとんど何もかもが問題であった。84年には、在庫の評価損4000万ドルを計上しなければならなかった。さまざまな問題が存在していることについて、社員の大半が承知していたが、その解決策となると意見はばらばらであった。
84年に新設されたコピー・プロダクツ・グループのゼネラル・マネジャーに就任したチャック・トローブリッジはその最初の2カ月で、同グループのキー・パーソンのほぼ全員と、そして複写機事業にとって重要な、社内じゅうの人物と面談した。なかでも特に重要だったのが、ボブ・クランダルが率いるエンジニアリング・アンド・マニュファクチャリング部門であった。
トローブリッジとクランダルが描いた同部門のビジョンは、「世界1流の製造能力を実現し、官僚主義を排した分権組織をつくる」という、いたって単純なものだった。
とはいえ、このようなメッセージを伝えるのは1筋縄ではいかなかった。コピー・プロダクツ・グループはもとより、コダックのほぼ全組織にとって、従来のコミュニケーション方法とはまったくの別物だったからである。
新たな方向性を打ち出し、そこに向けて社員たちを1つにまとめるために、クランダルはさまざまな手段を講じた。
たとえば、直属の部下12人との週次ミーティング、コピー・プロダクツ・グループのメンバーが交替でクランダルとグループ会議をする「コピー・プロダクツ・フォーラム」、直近の業務改善や新規プロジェクトの成果を高める議論の場、各マネジャーが担当チームの全メンバーを集めて4半期に1度開催する「ステート・オブ・ザ・デパートメント」(部門の現状を報告する会議)などである。
このほか、クランダルと直属の部下全員は、グループ内のいくつかの部門から80~100人を集め、彼らが望んでいることについて、月1度議論することにした。また、コピー・プロダクツ・グループにとって最大のサプライヤーである装置部門──この事業部は、複写機の設計・製造に必要な部品の3分の1を供給していた──と足並みをそろえるため、クランダルとそのマネジメント・チームは、同事業部のマネジメント・チームと毎週木曜日に定例昼食会を開いた。
彼はその後、「ビジネス・ミーティング」というやり方を編み出したが、これは、コピー・プロダクツ・グループのマネジャーたちが、在庫や基本スケジュールなど特定のテーマについて、社員12~20人と会議を持つというものである。
最終目的は、1500人いるコピー・プロダクツ・グループのメンバー全員を、これらの集中ミーティングに最低年1回参加させることである。
トローブリッジとクランダルは、自分たちの考えを文書にまとめ、社員たちに伝えたりもした。4~8ページの『コピー・プロダクツ・ジャーナル』が毎月、社員たちの元に届けられた。また『ダイアローグ・レターズ』では、社員たちがクランダルら上層部に匿名で質問できる場を提供し、必ず回答することを約束した。
何より目に見えて効果を発揮したコミュニケーション・ツールは、チャートであった。社員食堂(カフェテリア)近くの廊下には、だれの目にもわかるように大きく書かれた表やグラフを用いて、各製品の品質やコスト、納入実績について、かなりハードルの高い目標と対比しながら掲示した。これらのチャートはまた、普通サイズにコピーされ、製造部門全体に配付された。それを見れば、作業グループ別の品質水準と生産量が1目瞭然である。
皆を1つにまとめるために、以上のような施策を集中的に講じたところ、半年後には成果が表れ、1年後にはよりいっそう顕著になった。これらが奏功したことで、2人のメッセージの信頼性は高まり、皆以前に増して仕事に打ち込むようになった。
主力製品の1つでは、84年から88年にかけて、その品質が100倍近くも向上し、単位当たり欠陥数は30から0.3に減少した。別の製品ラインでは、3年間でコストが24%近く低下した。
納期遵守率は、85年の82%から87年の95%へと改善した。生産量が増えたにもかかわらず、在庫水準は84~88年で50%以上減少した。そして生産性(作業員1人当たりの生産量)も、85~88年で2倍以上の伸びを見せた。(本文に戻る)