「下町ボブスレー」が全国区になった勝因はメディア戦略にあった減少が続く大田区の町工場に活気を取り戻したいと始めた「下町ボブスレー」。すっかり有名になったこのプロジェクトを、どのようにして軌道に乗せたのだろうか?

ビジョンを掲げる人間=ビジョナリストの対談企画、今回は「ひかりTV」を運営するNTTぷららの板東浩二社長が「下町ボブスレー」を始めた細貝淳一氏を訪ねた。なぜ下町の町工場の社長が「ボブスレーの代表チームにソリを送ろう」と考え、1円たりとも投ぜずプロジェクトの知名度をあげることができたのか。聞けば、ビジョンの描き方と、メディアの利用法が見えてきた。

大田区の町工場は30年で7割減
閉塞感を打開した「下町ボブスレー」

板東 細貝さんは、町工場が集まる東京都大田区で、アルミ材料を加工・販売する「マテリアル」という会社を起業され、2011年からは、大田区の町工場が集まってボブスレーをつくる、「下町ボブスレー」を始めました。この取り組み、盛り上がってますね。

細貝 2018年の平昌五輪では、ジャマイカ代表チームにソリを贈ります。ボブスレーは「氷上のF1」と言われ、欧州では人気競技です。ソリのシャーシでいかに揺れを吸収するか、いかに氷の状態に合わせたランナー(スケート靴に例えれば氷と接する刃の部分)を使うかなど、各国の技術力が試される場でもあります。だから、米国ならNASA、ドイツならBMWなど錚々たる組織がバックアップしているのですが…。日本にはそれがなく、ボロボロのソリで戦っていたんです。

 そこで「日本のモノづくりを下支えしている」と言われる東京・大田区の町工場がバックアップしようと考えました。様々な政治的理由で日本代表チームにソリを供給できなくなってしまったので、いまは、映画「クールランニング」で知られるジャマイカ代表に協力しています。

板東 そもそも、なぜ始めたんですか?

細貝 大田区のモノづくりが衰退する、という危機感があったからです。大田区は昭和の時代から「図面を投げ込めば翌日には部品が出てくる」と言われる、モノづくりの街でした。宇宙・航空産業等で使う高精度部品や、自動車や家電の生産ラインで使う耐久性が高い部品を大手メーカーに納入する、技術力の高い工場が密集しているイメージです。しかし最近、町工場はどんどん減っていました。バブル全盛の頃は1万社あったのに、今は3300社くらいしかありません。

板東 ほぼ3分の1、すさまじい環境変化ですね。

細貝 打開策は、町工場同士の結びつきを強くすることでした。例えば「この会社は金属を加工し、この会社は穴を開け、この会社が検査をして…」といった具合に町工場同士が連携すれば、大企業にとってより使いやすいはずですからね。

板東 それがどうして「ボブスレー」になったんですか?

細貝 「勉強会」などと堅苦しいことをやっても人は来ません(笑)。そんな中、大田区役所の方とボブスレー日本代表の話題が出て「これを支援できれば!」となったんです。エンジンが必要ないから、大田区の町工場でもつくれるし、炭素繊維など当時最先端だった素材が使われており、我々にとっても最高の練習になりますからね。