株主至上主義によって<br />“産業が機能する社会”は構築することができるかダイヤモンド社刊
2100円(税込)

「もはやわれわれは、社会の基盤としての“経済人”の理念を維持することはできない。われわれは、人間の本質および社会の目的についての新しい理念を基盤として、自由で機能する社会をつくりあげなければならない。しかしわれわれは、その新しい理念が何であるかを知らない」(ドラッカー名著集(10)『産業人の未来』)

 今から約70年前の1939年、ドラッカーは、処女作『「経済人」の終わり』を書いた。「経済人」とはエコノミック・マン、すなわちエコノミック・アニマル、経済至上主義のことだった。ドラッカーの目には、すでに経済至上主義が終わったと映っていた。

 では、その後に来るのは何か。ドラッカーは、第二作の書名を『産業人の未来』とした。これほどに野暮ったい書名も珍しい。

 だが、ここでいう「産業人」こそ、現実に産業界で働く人のことである。特に、会社という名の組織に働く「組織人」のことである。よりよい社会をつくるのは、それら企業の社長、部長、係長である。

 世のため人のために優れた財・サービスを提供する「産業人」が、文明をつくる。

 ところが、80年代の米国での会社乗っ取りブームが、無能な経営者を叱咤すべき存在としての株主に至上の地位を与えた。そして、その株主至上主義が、原油価格高騰によるオイルマネーの怪物化を受け、経済の様相と社会の様相を急激に変貌させつつある。

 いまや、一定の短期利益を上げない役員会は、産業活動の経験のない投資ファンドによって信任を拒否され、“機械的に排除”されることがあるのだという。

 そんな権力を手にした新種の株主が、株式会社という“有用だが脆かった制度”を壊すことさえ危惧される。

「自由で機能する社会を可能とするには、企業をコミュニティへと発展させることが必要である。産業社会は、企業が自らの成員に対し、社会的な位置と役割を与えるときにのみ機能する。そして企業内の権力が、その成員による責任と意思決定を基盤とするとき、産業社会もはじめて自由となる。今日必要とされているものは、全面計画でも、一九世紀のレッセフェールでもない。分権と自治を基盤とする産業現場の組織化である」(『産業人の未来』)

週刊ダイヤモンド