あの「グリコ・森永事件」を“これぞ真相か?”と思わせる迫真の筆致で小説化した『罪の声』(講談社)で、山田風太郎賞を受賞したほか、「週刊文春」ミステリーベスト10国内部門第1位、2017年本屋大賞第3位などを獲得した塩田武士氏。この作品に続いて書き上げた『騙し絵の牙』(KADOKAWA)も、2018年本屋大賞にノミネートされるなど話題を呼んでいる。“廃刊の危機”にさらされる雑誌編集長である主人公に、人気俳優・大泉洋氏を“あて書き”するという斬新な手法にも興味を惹かれるが、出版業界を舞台に、さまざまなビジネスパーソンの生き様を深い視点で描いた“ビジネス小説”としても実に面白い。その観点から、塩田氏に小説にこめた「真意」を聞いた。(聞き手・構成/ダイヤモンド社 書籍編集局 田中 泰)
「社内政治」とかかわらざるを得なくなったとき、
真ん中に立てるか
定価1728円 KADOKAWA刊
――廃刊のプレッシャーを受ける雑誌編集長・速水は、作家の心にスッと入り込み、味方につけてしまうビジネスパーソン最強の武器をもつ主人公です。それで、編集者として素晴らしい実績を築いてきた。ただ、彼は、社内の同僚にも同じスタンスで付き合っていますよね? それが、社内政治への絶妙な距離の置き方を可能にしているように読めました。
塩田 そうですね。彼は、ずっと社内政治をかわそうとし続けてきた人間です。彼が勤める大手出版社・薫風社は上層部の派閥争いが激しいんですが、彼はできるだけそれとは距離を置いて、編集の仕事に集中しようとしてきた。
ただし、彼はリアリストですから、自分の仕事を望む方向で進めるためには人望が必要だということがよくわかっている。だから、上層部の派閥からは距離を置いて「真ん中」を保ちつつ、社内の人望、特に若手社員からの人気をどんどん集めていった。そこで、彼の「人を動かす」能力が存分に生かされているわけです。
――社内で速水のような存在になりたい、と思っている人はかなり多いんじゃないかと思います。速水の“かわし方”がすごいなぁ、と思ったシーンがあります。直属の上司である編集局長・相沢から「まぁ、とにかく次の編集長までつないでくれよ。この部屋(注:編集局長室)は将来、君のもんになるんやから」と言われたシーンです。
****引用****
「まぁ、とにかく次の編集長までつないでくれよ。この部屋は将来、君のもんになるんやから」
わざと声を潜めた相沢に、速水は仲間意識を強要されているようで不快感を覚えた。
薫風社はオーナー企業ではない。誰にでも社長になるチャンスがあるからこそ、出世争いは熾烈を極める。現在、社内は史上最年少でトップに就いた社長派と、労働組合の交渉窓口に立つ「労担」の専務派に分かれている。専務が社長の先輩というねじれのせいで、両派は微妙な均衡の上に成り立っていた。社長は営業出身、専務は編集出身とあって、根本的に考え方が異なる。
「いやぁ、自分にはこの部屋は広すぎますねぇ」
相沢はバリバリの専務派だ。速水は露骨な踏み絵をさらりとかわした。
「上手やなぁ」
掠れた声を出した相沢が、芝居がかった様子で首を振る。
「いえ、本音ですから」
「でも、それでこそ速水や。で、本題やけど」
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――まぁ、私は、幸か不幸か、こういう踏み絵を試されることはないんですが、こんな機転を利かせることができる人になれたら、もうちょっとうまく世の中を泳げるだろうなと思います(笑)。
塩田 私もですよ(笑)。ただ、ここで速水は踏み絵をうまくかわしてるんですが、同時に、それは彼の本音でもあるんです。彼は、社内での出世を求めてはいませんからね。そして、このシーンには“含み”をもたせています。つまり、編集長になった速水は、“真ん中”を歩くのが難しくなっているということです。これだけ露骨な踏み絵を差し出されてるんですからね。派閥にとっては、社内の人望を集めている速水は欲しい人間です。速水を引き入れることができれば、社内での影響力の強化が期待できますからね。
しかも、「雑誌の収支を改善できなければ廃刊する」とプレッシャーを受ける立場に速水は立っていますから、権力者に対してヘタなことはできない。平社員のうちは“真ん中”を歩けても、いつかそれが難しくなる。速水が、そんな端境期にも立っていることを描きたかったんです。
つまり、新旧メディアの端境期、社内政治における端境期が重なっている。その真ん中に速水は立たされて、状況を打破すべく必死にもがくわけです。
――なるほど。これは、中堅のビジネスパーソンにとっては、非常に切実な状況ですよね。身につまされる人が多いと思います。私も「自分だったら、どうするだろう?」と自問しながら、読み進めました。
塩田 それは嬉しいですね。