一つは、コンピューター能力、ビッグデータ処理、AIなどの発達で、ユーザー1人ひとりについて調べる能力が飛躍的に拡大し、またその処理コストが急速かつ継続的に低下すると思われるようになったことだ。大きな処理力を持ち、疲れを知らないAIにとって、あなたが「取るに足らない」人であり続けられる期間は、もうそう長くないかもしれない。

 もう一つは、自分個人は個人情報を利用されても実害はないので構わないと思っていても、そのような人が多数いた場合に、この集団のルールや倫理が影響を受けることで、世の中のありようが変化する心配が出てきたことだ。

 後者については、今や、「自分は自分の個人データを利用されても構わない」と思っていても、個人のデータが利用される状況を放置して無関心でいることは、社会的に無責任と言えるのではないか。フェイスブックを巡る一連の問題は、そうした問題提起の一つであるとも考えるべきだろう。

まず教育による「解毒」と「予防」を

 企業や別の個人、あるいは国や自治体が、個人のデータをどのように扱うべきなのかについて、「適切な規制」を思いつくことは簡単でないし、仮にいい規制案があっても、それについて合意と遵守を確立することは至難だろう。

 筆者は、はっきり言って、規制にあまり期待していない。影響はたぶん外国の方が大きいように思うが、日本にあっても、外国にあっても、個人データの利用に関する規制は、利害関係者が繰り広げるゲームの中で揺れ動くだろう。

 他方、むしろ力を入れるべきなのは、広義の「教育」、あるいは広報活動ではないだろうか。

 卑近な例だが、リテール向けの金融に例を採る。例えば、富裕な個人が銀行と取引していると、銀行はこの個人に対して、しばしば、サービスの充実・改善を理由に、自行のグループ会社である証券会社や信託銀行と銀行が、顧客の個人データを共有することに対する同意の念書にサインさせようとする。