近畿大学の塩崎均名誉学長は、大阪大学医学部を卒業して外科医になった。俗にいう「偏差値エリート」の1人だ。だが、その偏差値エリートが「不本意入学」の学生が少なくなかった近大を改革し、偏差値に左右されない教育の重要性をうたう根底には、どのような子ども時代の経験があったのだろうか。
子どもの頃から切手集めが趣味
切手から海外へ思いをはせる
私は1944年、和歌山県新宮市で生まれた。兄2人、姉2人がいる5人兄弟の末子で、子どもの頃は「暗い」「何を考えているかわからない」と言われるような子だった。それが70歳を過ぎて「吉本新喜劇」に飛び入り参加するようになるのだから、人生、何が起こるかわからない。
もっとも、私自身の心の中では鬱々とした少年時代を過ごした記憶はほとんどない。人は人、自分は自分。学校で目立つ子がいても、格段、それをうらやましいと感じたことはなかった。
生まれ故郷の新宮市は製材業で発展してきた街だ。子どもの頃、貯木場に熊野川を流れてきた材木がずらりと並んでいたのを思い出す。
近畿大学附属の新宮中学・高校がある縁で、近大の学長になってからも講演を頼まれたりして、何度か故郷を訪れる機会があった。行けば必ず一泊するが、そのたびに、昔に比べてなんと街が寂れたことかと実感する。
父は新宮市で、簡易郵便局の局長をしていた。その影響を受けて、子どもの頃は海外の切手を集めるのが趣味だった。切手収集を始めたのは小学校4年生くらいから。最初は父に買ってもらい、そのうち自分で買いに行くようになった。「局長の息子といえども、ちゃんと並んで買わないといけないよ」と言われたのを覚えている。
今日のようにインターネットを通じて海外の情報が何でも手に入る時代ではなかったため、身近に触れ合う海外の何かといえば、切手くらいしかなかった。切手の1枚1枚に描かれた街や動植物などを眺めながら、まだ見ぬ海外に思いをはせた。なかでもインドネシアの切手にはボルネオ島、スマトラ島に住む動物の絵柄が多く、生き物が好きな私はそれを見て、とてもわくわくしたものだ。
中学に入ると、世界中のいろんな国のコレクターと文通し、切手を交換し合うようになった。そのおかげで、アフリカ大陸にある小さな国の名前まで、すべて覚えることができた。