第2のパターンは間接的な悪さである。それ自体は悪くなくても、本質的に悪いことにつながりかねないという場合だ。職を失うことは、本質的には悪いことではないかもしれない。だが間接的には悪いことである。貧困や借金になる可能性が高まるし、そうなれば痛みや苦しみなど本質的に悪いものを呼び込んでしまう。

 第3のパターンは相対的な悪さである。本質的に悪いわけではないし、間接的に悪いわけでもない。しかしそうする間にもっと良いものを手に入れ損ねていれば、それは悪いということになる。

 このうち3つ目のケースは見逃されがちだが、死がなぜ悪いのかをうまく説明している。死ぬのがいけないのは、人生において良いことの起きる可能性が「剥奪」されてしまうからというわけだ。こうした考えを剥奪説と呼ぶ。剥奪説に対してはいくつか異論もあるが、それでも総合的に考えると、剥奪説こそが妥当であるように思われる。死を悪と見なすうえでもっとも肝心な理由は、「死んだら人生における良いことをまったく享受できなくなるから」なのだ。

◇不死はなぜ悪いのか

 人生における良いことを剥奪するから、死は悪い。だとするともっとも望ましいのは永遠に生きること、すなわち不死だと帰結しそうになる。だが不死が人間にとって最善かどうかを検討するために、次の2つの疑問について考えたい。

 1つめの疑問は、剥奪説を受け入れる際に「不死は良いことだ」と信じる必要があるかどうかだ。剥奪説を受け入れながら不死の価値を否定することは、自己矛盾になるのかならないのか。2つめの疑問は、そもそも普遍的な真実として不死が良いかどうかである。たとえ論理の一貫性のためだけに不死の価値を認める必要がないとしても、不死そのものは良いものなのだろうか。

 1つめの疑問についての回答は明確だ。剥奪説を受け入れることと、死は常に悪いと主張することは同じではない。論理的に考えて、「人生にもう良いことが何も残っていない」という状態は起こりうる。人生に良いことがなにも残っていないのなら、死によって人生を奪われてもそれが悪いとは言えないだろう。よって剥奪説にもとづく論理の一貫性だけでは、不死が良いものだと結論づけることはできない。