連合赤軍の兵士たち5人が立てこもった「あさま山荘事件」は、10日間の銃撃戦のあいだに警察官2人と民間人1人が殺害され、テレビの生中継は90%近くの視聴率をとったという。僕もその映像は覚えている。日本中が固唾をのんでいたその雰囲気も、何となく記憶にある。まさしく歴史に残る大事件だ。

メンバー同士が互いに殺し合った山岳ベース事件

 でも本当の衝撃はこの後だ。逮捕後の取り調べで、メンバー同士が総括の名のもとに互いに殺し合っていたことが明らかになった。これが山岳ベース事件だ。犠牲者数は14人。山中に埋められた遺体を掘り起こす写真は、新聞各紙に大きく掲載された(後で知ったことだけど、警察はメディアに写真を撮らせるため、掘り出した遺体をまた埋めたりしていたという)。あまりに凄惨で、あまりに意味不明で、あまりにグロテスクな状況だった。あさま山荘の段階では「学生ガンバレ」(実際には現役の学生はほとんどいなかったのだけど)的な雰囲気が多少は周囲の大人たちにもあったけれど、さすがに山岳ベース事件については、支持する人など誰もいない。もう話題にもしたくない。そんな雰囲気が一気に醸成された。

 こうして日本の新左翼運動は急激に衰退する。1972年。沖縄が返還され、ニクソンがアメリカ大統領としては史上初めて中国を訪れ、田中角栄が書いた『日本列島改造論』がベストセラーとなり、大井競馬場でハイセイコーがデビューした年だ。

 元赤軍派と元革命左派の兵士たち4人を中心にしたこの日のシンポジウムには、とても多くの世代やポジションの人が、パネラーとして参加した。元赤軍派最高指導者で20年近くの獄中生活を送った塩見孝也もいれば、そのライバルで共産主義者同盟叛旗派を創設した三上治、同世代で新右翼の一水会最高顧問の鈴木邦男もいる。他にも漫画家や新聞記者、弁護士や雑誌編集記者や作家などがステージに上がり、この事件について思うことを発言した。

 当時の多くのメディアは、指導者の位置にいた森恒夫と永田洋子の2人が、異常な支配欲や権勢欲、さらには嫉妬や保身や残忍な加虐趣味など個人的な欲望を燃料にしながら、他のメンバーたちの心身を支配して互いに殺し合う閉塞的な状況を作りあげたなどと解釈し、裁判も大筋としては、そうした構図に合わせるかのように進行した。