哲学や宗教は、
決して無用ではない

――自然科学が2つの問いの答えを導き出したのなら、哲学や宗教は無用になってしまうのでしょうか?

出口:僕は、無用だとは思いません。たしかに、自然科学の進歩によって、哲学と宗教の守備範囲や持ち分が狭く、小さくなったのは間違いないと思います。
たとえば、「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対し、原始宗教は、輪廻転生の考え方を持ち出すことができたわけです。
「おまえはかつて、あの牛だったんだぞ。現世で正しい行いをすれば、次は貴族に生まれ変われるぞ。すべてはおまえ次第だ」
と説いて、人々を説得することができました。
ですが、今では、「人間は牛だった」では説明がつかない。僕たちは牛ではなく、星のかけらからできているからです。

自然科学が発達した結果、人間の世界から未知の分野が激減しました。哲学や宗教が果たしてきた役割は、どんどん小さくなっています。人々の哲学や宗教への関心が薄くなるのは当然かもしれませんね。

けれども、人間が何千年という長い時間の中で、よりよく生きるために、また死の恐怖から逃れるために、必死に考えてきたことの結晶が、哲学と宗教の歴史です。
自然科学が進んでも、哲学や宗教は、まだまだ人間の知の源泉のひとつであることに違いはありません。
哲学や宗教にこそ、明日への扉を開く重大なヒントが隠されている気がします。

――自然科学が宇宙の成り立ちに迫っても、哲学や宗教はこの先も生き残っていくわけですね。

出口:自然科学は「人間は星のかけらから生まれ、動物であるがゆえに次の世代を残すために生きている」ことを大筋では明らかにしました。けれども、宇宙についても人間の脳についても、解明できていないことがまだまだたくさんあります。ということは、哲学や宗教は生き残っていくのではないでしょうか。

文明の最先端に位置するアメリカで多くの新興宗教が生まれているのは、科学や技術が進んでも、人間の心の問題、精神の問題は最後まで残るからです。
「星のかけらから生まれたのなら、人間は物質に還元できる」と合理的に解釈できる人もいれば、反対に、「人間には心や精神があって、必ずしも物質には還元できない」と考える人もいます。人間は感情の動物なので、合理性だけで片づけることはできないのです。
「物質に還元できない」という立場をとる人にとって、宗教や哲学は、不幸や宿命、あるいは、病気、老い、死と向き合う知恵になります。

哲学者と呼ばれた人たちは、世界とは何か、人間とは何か、生きるとは何かを懸命に考えて論理化してきました。その一方で、自然科学の発達が宇宙や、地球や、人間の脳について、多くのことを解明しました。ところが人間は、いろいろなことがわかってきても、相変わらず失恋したり、殴り合いをしたり、数千年以前と同様の人生をおくっています。

だからこそ、哲学と宗教を通して、過去の人たちが、自然科学の知識がない中で世界をどのように理解しようとしたのか、そのプロセスを知ることに意味があると僕は思うのです。