「和敬塾」という珍しい男子学生寮がある。1955年、産業用冷凍機の国内シェアトップを走る前川製作所の創業者・前川喜作氏が都内を一望できる目白台の細川邸7000坪の土地を手に入れ、建設した。卒塾生は5000人を超え、現在も大学や出身地、国籍、宗教の異なるさまざまな学生が暮らしている。加藤隆俊氏は1964年大蔵省(現・財務省)に入省し、財務官を経て、IMF(国際通貨基金)副専務理事を務めた。日本経済、世界経済を半世紀にわたり見守り続けてきた加藤氏も和敬塾出身だ。(清談社 村田孔明)

和敬塾の最大派閥
灘高生たち

加藤隆俊氏
加藤隆俊(かとうたかとし) 1964年大蔵省(現・財務省)に入省。財務官を経て、IMF(国際通貨基金)副専務理事を務める。現在は公益財団法人国際金融情報センター顧問 Photo by Kazutoshi Sumitomo

 1960年(昭和35年)、加藤隆俊氏は灘高校を卒業し、東京大学文科一類へ進学した。当初は駒場キャンパス近くの東北沢で下宿するも、下宿のおばあさんが高齢のため1年後には下宿をたたむことになった。そこで灘高校の同級生たちが住んでいた和敬塾へ誘われ、2年生から和敬塾での生活を始める。

「灘高から東京の大学に進学するようになったのは、私の世代ぐらいからです。それまでは上京せず、京都大学や大阪大学に進む人が多かった。とくに1964年に新幹線が開通するまでは、関西と関東の文化はかなり違っていましたから」(加藤氏、以下同)

 和敬塾の卒塾生の出身高校別では灘高校が120名を超えトップだ。その大半は東大生であり、学業に専念するために2、3年生から寮を出る学生も多い。途中で出た人は卒塾生にはカウントされないので、実際には数倍の灘高生が和敬塾に入っているだろう。

「全共闘ストを尻目に学問に没頭、JICA理事長が語る和敬塾の思い出」の記事で、北岡伸一氏と親交の深い和敬塾の先輩S氏を紹介したが、S氏の名は下荒地修二氏だ。彼も灘高校出身で、東京大学を卒業後に外務省へ入り、駐パナマ大使、駐ベネズエラ大使として活躍した。

「どうして和敬に灘高生が多いのか、はっきりとはわかりませんが、灘気質が影響しているのかもしれません。灘高生は物事を一歩引いて考える傾向にあります。どこか冷めていて、何事にも熱中しない。60年代は学生運動が活発な時期でしたが、大学の自治寮と違って和敬塾では政治運動を無理強いされませんでした。自由にさせてもらえるところが灘高生には合っていたのでしょう。先輩たちが楽しそうに暮らしているのを見て、後輩たちも和敬を選ぶようになったのかもしれません」

 灘高の同級生かつ、和敬塾で一緒に過ごした友人の中で、児玉文雄氏、中尾舜一氏とは霞が関でも共に働くようになる。

「児玉と中尾は通産省(現・経済産業省)に入りました。でも中尾は剣道に熱中しすぎて、通産省から内定をもらっていたのに試験に落ちてしまい、翌年受け直した。だから霞が関の入省年次では1年後輩になります。児玉も体を鍛えており、灘のときから柔道をやっていましたね。灘は文武両道が多いのですが、私は軟弱な自動車部です。自動車部と言いましても、いまでもスペアタイヤを換えることすらできませんが(笑)」