横浜の干潟を干拓しようと考えたのが、摂津出身の商人・吉田勘兵衛である。1649年に大きな地震が関東を襲った。記録によれば、江戸城二の丸の石垣や塀が破損し、大名の屋敷の長屋が倒壊したという。この時代に江戸城修築の御用木材の業者として活躍したのが吉田勘兵衛である。

◇ハイリスク・ハイリターンな新田開発

 江戸時代は人口増加による食糧不足の時代であった。江戸幕府や各藩は新田開発を奨励した。この時代、米は食料としてだけでなく、通貨としても用いられていた。「一攫千金」「特権階級への昇格」という野心を持った商人たちは、競うように新田開発を行なった。日本各地の湖沼や干潟湿地帯などは、手当たり次第に埋め立てられ、干拓されていった。

 勘定奉行に許認可を得た商人たちは、投資家やデベロッパーの役割を担い、新田開発を進めた。開発が成功すれば、数年間年貢を免除されるといった特典が与えられた。

 これまで耕作地として用いられていなかった、訳ありの土地を田んぼに変身させるのは、ハイリスク・ハイリターンの投資であった。新田開発は、一攫千金が期待できる反面、開発の長期化による資金難のリスクが常につきまとった。

◇8千両をかけた開拓事業

 木材の商いで材を成した吉田勘兵衛は「一世一代の大博打」として、横浜で一千石の新田開発を行うことを決意する。何度も横浜村を訪れ、風光明媚な横浜村に魅せられていった勘兵衛は、「汀から沖に向かって埋め立てていけば、必ず一千石分の田が作れるに違いない」と踏んだ。

 幕府の許可を得た勘兵衛は、総事業費8千両(現在の貨幣価値に換算して8~10億円)を投じて干拓を開始した。初期投資を約20年で回収する目算である。収穫さえできれば毎年確実にキャッシュが得られる。

 堤防を作り、土地を埋め立てて水田にする横浜村の大工事は、長雨による堤防の決壊などに悩まされながらも、11年ののちに完了した。完成した新田の規模は約35万坪、要した土砂は約17万平方メートルにも及んだ。

【必読ポイント!】
◆横浜港の開港
◇ペリーの横浜上陸

 1853年、アメリカ合衆国・東インド艦隊司令長官のペリーが、アメリカの国書を持って浦賀沖に現れた。幕府は「鎖国中であるため、唯一の貿易港である長崎に行ってくれ」と伝えたが、ペリーは久里浜に上陸した。この時は代表として浦賀奉行が国書を受け取った。