100パーセントは正しくない科学

 正しい演繹なら結論は100パーセント正しい。しかし、結論は根拠の中に含まれているので、いくら演繹を繰り返しても知識は広がっていかない。

 一方、推測の結論は100パーセント正しいとはいえない。しかし、結論は根拠の中に含まれていないので、推測を行えば知識は広がっていく。

 たとえば(服は着ていたものとして)、「池に落ちた」という根拠から「服が濡れている」ことを結論するのは演繹だ。池に落ちれば、必ず服は濡れるからだ。つまり、「池に落ちた」ことを知った時点で、「服が濡れている」ことも同時に知ったことになるのだ。

 そのため、わざわざ演繹を行って「服が濡れている」という結論を出したところで、周りの人からは「そんなこと知ってるよ。池に落ちたのなら、当たり前じゃないか」といわれてしまう。演繹を行っても、知識は広がらないのだ。

 一方、「服が濡れている」という根拠から「池に落ちた」ことを結論するのは推測だ。服が濡れているからといって、池に落ちたとは限らないからだ。雨に降られたのかもしれないし、ホースで水をかけられたのかもしれない。だから推測を行って、「池に落ちた」という結論を出せば、周りの人からは「えっ、そうなの? 全然知らなかった」とかいわれる。推測を行えば、知識は広がるのだ。

 科学では、必ず何らかの形で、この推測を使う。

 そして、よくあるケースでは、推測によって仮説を立てる。それから、この仮説を、観察や実験によって検証するのである。そして観察や実験の結果によって仮説が支持されれば、仮説はより良い仮説となる。

 だから、たくさんの観察や実験の結果によって、何度も何度も支持されてきた仮説は、とても良い仮説である。

 そういう仮説は、「理論」とか「法則」と呼ばれるようになる。しかし、どんなに良い理論や法則も、100パーセント正しいわけではないのである。それはなぜだろうか。

 科学の手順にはいろいろあるけれど、今まで述べてきたように、次の2つの段階を踏むものが多い。

(1) 仮説の形成

(2) 仮説の検証

 それでは、まず(1)の仮説の形成を、コウイカというイカを例にして考えてみよう。コウイカというのは、カメの甲らに少し似ている殻を体内に持つイカで、脊椎(せきつい)動物を除けば、もっとも知能が高い動物である可能性が高い。

 さて、あなたは「イカは海にすんでいて足が10本である」ことを(暗黙の前提として)知っているとする。そのうえで、あなたは「コウイカが海にすんでいる」ことを観察した。

 そこであなたは、「コウイカは海にすんでいる」という証拠から、「コウイカはイカである」という仮説を立てたとしよう。

 証拠(コウイカは海にすんでいる)

     仮説形成↓

 仮説(コウイカはイカである)

 あなたは、この仮説をどうやって立てたのかというと、証拠をうまく説明できるように仮説を立てたのだ。「コウイカはイカである」という仮説は(暗黙の前提としてイカは海にすんでいるので)「コウイカは海にすんでいる」という証拠をうまく説明できるのである。