「説明する」とは「演繹する」ということ

 ここで説明という言葉を使ったが、「説明する」とはどういうことだろうか。「コウイカはイカである」という仮説が「コウイカは海にすんでいる」という証拠を説明するというのは、「コウイカはイカである」が正しければ、「コウイカは海にすんでいる」も100パーセント正しいということだ。

つまり、「説明する」というのは「演繹する」ということだ。

 証拠(コウイカは海にすんでいる)

     仮説形成↓ ↑説明(=演繹)

 仮説(コウイカはイカである)

 これで(1)の「仮説の形成」の手順は終わりである。次は(2)の「仮説の検証」の手順だ。

 仮説を検証するには、仮説から新しい事柄を予測しなければならない。証拠として使った事柄とは別の事柄を、仮説から予測して、それが事実かどうかを確かめるのだ。これが検証である。もちろん新しい事柄は、仮説によってうまく説明できるものでなければならない。

 つまり、新しい事柄は、仮説から演繹されるものでなければならない。

 たとえば、(暗黙の前提として)イカの足は10本なので、「コウイカはイカである」という仮説からは「コウイカの足は10本である」という新しい事柄が予測できる。

 証拠(コウイカは海にすんでいる)

     仮説形成↓ ↑説明(=演繹)

 仮説(コウイカはイカである)

     ↓予測(=演繹)

 新しい事柄(コウイカの足は10本である)

 さて、新しい事柄を予測したら、次は、新しい事柄が事実かどうかを確かめなくてはならない。観察や実験によって、新しい事柄が事実かどうかを確認するのだ。

 あなたは実際にコウイカを観察して、「コウイカの足は10本である」ことが事実だと確認した。つまり、新しい事柄が事実であることを確認したので、仮説は実証された。つまり、仮説はより良い仮説となった。

【A】
証拠(コウイカは海にすんでいる)

     仮説形成↓ ↑説明(=演繹)

仮説(コウイカはイカである)

     検証↑ ↓予測(=演繹)

新しい事柄(コウイカの足は10本である)

 さて、科学の典型的な手順を説明してきたが、それは、科学がどうしても100パーセントの正しさに到達できない理由を説明するためだった。その理由を【A】を見ながら考えてみよう。

 科学の正しさというのは、要するに仮説の正しさのことである。【A】を見ると、仮説に向かう矢印は、仮説形成と検証だ。仮説を支えているのは、つまり仮説の正しさを保証するのは、仮説形成と検証なのだ。

 ところが、仮説形成も検証も、論理の向きが演繹とは反対になっている。つまり、演繹の「逆」になっている。そして、さきほど述べたように、ある主張が正しくても、その逆は必ずしも正しくない。

 科学では、仮説による説明や予測を演繹にしなければならないので、仮説の正しさを保証する仮説形成や検証が、どうしても演繹の逆になってしまう。だからどうしても、仮説に対して100パーセントの正しさを保証できないのである。

 新しい事柄を知るためには、100パーセントの正しさは諦めなくてはならない。これは仕方のないことなのだ。それでも、私たちは知識を広げてきた。真理には到達できなくても、少しでも、そこに迫ろうとして。生物学も、そんな科学の一部であることを、いつも頭の片すみに置いておくことにしよう。

(本原稿は『若い読者に贈る美しい生物学講義』からの抜粋です)