前回は「性能には理論的な限界がある」、という話をした。理論限界に近づくと、いくら努力しても製品の性能は殆ど向上しなくなる。その間に、新興国の企業などが追いついてきて、「もう、性能では逃げ切れない」という壁に突き当たる。
性能にはもう一つの壁がある。視力、聴力、運動能力など、製品を使う人間の身体能力の限界からくる壁だ。普通、製品の性能が上がるのは、使う側にとって快適なことだ。しかし、ある程度の以上になると、性能が上がっても人間の方が違いを知覚できなくなったり、使いこなせなくなったりする。理論的に性能を上げることができても、性能を上げることの意味がなくなる、「知覚限界」という壁である。
テレビは人間が認識できる
綺麗さの限界に達したか
家電の王様と言われたテレビの地位が、韓国企業などとの競争により凋落したのは、日本にとって大きなショックであった。価格の急落に付いていけなかったことが大きな理由だが、消費者が高い代金を払い、少しでも質の良いテレビを買いたいと思わなくなった、ということでもある。
ブラウン管の時代には味わうことができなかった大きく鮮明な画面に魅了され、多くの消費者が高額の薄型テレビを購入した。この頃は、多少高くても、画質の良い日本製のテレビを買いたい、と思う気持ちが強かった。しかし、しばらくすると韓国企業などの画質が上がり、敢えて高い金を払って日本製品を買おうと思わなくなった。消費者には画質に大きな違いがなくなったように見えたし、仮に、違いがあったとしても代金を上乗せするほどではなくなったからだ。実際、最近、電気店に並んでいるテレビの画質の差は非常に小さく見える。
そこで日本メーカーは3次元テレビの商品化に力を入れた。確かに、3次元テレビなら、番組によっては、従来のテレビでは味わえない迫力を楽しめる。しかし、3次元テレビのビジネスは上手くいかなかった。ほとんどの人にとって、薄型テレビの画質で十分だったからだ。
ブラウン管時代に比べると十分に奥行きのある画面を楽しむことができるし、ほとんどの番組は特段の立体感を必要としない。1週間に1度あるかないかの番組のために高い代金を払って、面倒なメガネをかけようと思う人が少なかったのはとても納得できる。今、家電メーカーは有機ELテレビに力を入れているが、薄型テレビより高い代金を払ってでも買おう、という思う気持ちが筆者にはない。