ただ、もちろん注意すべきこともあります。個人の能力や実績が情報として残ってしまえば、それを隠すことはできない。一度何かで失敗したことが、全部履歴に残り、生きづらくなるということも考えられます。また、才能があったとしても、使うかどうかは個人の意思によるということもいえるでしょう。

「初期のゆらぎ」で
規定される危険性

秋山 ニーズに合わせて「個別最適化」されるということで一つ思ったのは、幅が狭められてしまう可能性もあるのではないかということです。たとえば私は一時期、能力開発の観点からニュースサイトでよくサッカーの久保建英選手の記事を読んでいたのですが、そういう記事の下には久保選手に関係する記事が出てくるので、またクリックして読む。そうすると、別に私は24時間久保選手のことだけを考えている人間というわけではないのに、レコメンドニュースがすべて久保選手だらけになってしまう(笑)。

 まだデータアナリシスの精度が低いせいなのかもしれませんが、こうして選択の幅が狭められるのも危険ですね。過去の履歴から、自分の嗜好が解析されて、見たくないものは表示されない、自分の目になじむ記事だけに囲まれるフィルターバブルもそうですが。

高木 「初期のゆらぎ」で規定されてしまうことの危険性はありますね。多様性がなくなるので、ランダム性を導入するということも必要でしょう。

秋山 ニュースサイトでも、わざとその個人に最適化されていない記事を差し挟む工夫も必要ですね。まったく興味のない可能性のあるニュースをあえて入れるという。

高木 個人化が進んで個人が強くなるけれども、やはりそれだけでは限界がある。10年後、20年後に「揺り戻し」が来る可能性は大いにあると思います。個人化だけではなく、並行してコミュニティや対面のコミュニケーションが再評価されるといったようなことです。

デジタル・ネイティブでない世代が
新しい社会で生き抜くために

秋山 デフレーミングでいろいろなことが変わるだろうということがわかりました。ただ、デジタル・ネイティブではない40代以上の世代にとっては、正直そういう社会には感覚的についていけないのではないかという諦めの気持ちや恐怖があると思います。しかし、それでも人生100年時代を生き抜かなければならない。何かヒントはありませんか。

高木 新しいことが生まれている技術の変わり目は、ビジネスの変わり目です。今まで大きな組織でなければ持ち得なかったシステムや情報を、個人がデジタル技術で使うことができる。これまでの寡占をひっくり返せる可能性もあります。最先端技術そのものに追いつかなくても、そこに合わせたエコシステムに関わることはできるでしょう。

 個人としても改めて「中核価値」を整理、再定義して、自分の持っている能力や対面コミュニケーション能力を新しいエコシステムで生かせないか考える。そして、そのエコシステムやコミュニティに接続することができれば、チャンスは広がると思います。

秋山 自分のできることを整理したり、発信したり、新しい技術や社会、コミュニティに、オープンマインドで接すると。これからは、「自分から開かれていく」ことが必要ですね。